羽田空港 《いいかげんな日本のテレビ》海外の報道と衝突炎上事故の犯人さがし

2024年元日に、北陸で震度7の大地震が起こった。2日には、羽田空港の滑走路上で、海上保安庁のプロペラ機が日航のエアバス機と衝突、爆発炎上した。日航機の乗員乗客は、幸い無事に脱出できたが、どちらも悲惨な大災害、大事故であり、被災者の方や死亡者の方には言葉もない。

このどちらも、海外でも大ニュースとして報道されている。親爺が思うには、海外のニュースの取り上げ方は、日本よりはるかに客観的に事実を見て、詳しい。日本のテレビの報道は、あまりに一部だけを切り取って感傷的で漠然としており、延々と繰り返すばかりである。

元日におこった北陸の地震は、未だに被災状況の詳細が分かっていない。

海外の報道の切り口は、現在の建築基準法の耐震基準を満たしていない古い木造住宅でとりわけ倒壊の被害が大きく、冬の寒い中、多くの人々がホームレスになって、救援の手がとどかず人命の危機ではないかと放送している。つまり、日本という国が、どのように対処するのか注目している。

羽田の衝突事故は、日航機の乗客と乗員は無事だったものの、海上保安庁のプロペラ機は乗員5名が死亡、パイロットが重症になるという痛ましい事故だった。こちらも、海外のメディアは盛大にこれをとりあげている。こちらは、エアバスの乗員の活躍で、乗客乗員全員が奇跡的に助かったと称賛しているのは間違いない。

しかし一方で、このような過密ダイヤで、離着陸が難しい空港で、このような「ヒューマンエラー」が原因と思われる大事故が起こったのか、それも先進国といわれた日本でなぜ起こったのか、かなり懐疑的に報道されている向きがある。日航機には、コックピットに3人の操縦士がおり、海保機には操縦士が2人いた。世界各国は他国のことを露骨に非難しないが、日本がどのように対処するのか、注目しているのは間違いない。(現に正月以来の株価は、軟調である。)

France 24から

この航空機事故では、きょう(1月6日)の段階では、テレビは、海上保安庁の機長が、管制塔から誘導路で待機する指示を、滑走路の中で待機すると勘違いしたのが事故の原因で、警察が業務上過失致死で捜査していると報道されていることが多いようだ。

ところが、深田萌絵さんの動画では次のことを指摘されている。

  • ① 実際に管制塔と海保機で交わされた英語(”Taxi to holding points C5”(誘導路C5で待機しろ)と”Taxi into holding points C5”(C5滑走路で待機しろ)という表現は、紛らわしいので、国際的には変更されて使われてない表現である。最新の言い方は、”Hold short of “(~の手前で待て)をつけて言う。
  • ② 海保機には、最新のトランスポンダー(1秒ごとに自機の位置、高度を発信して周囲の航空機に知らせる装置)が装備されていなかった。これがあれば、着陸してくる日航機も滑走路上の海保機に気付く可能性があった。
  • ③ 管制塔にレーダー監視員がいなかった。管制塔のレーダーには滑走路に入った航空機を識別できた。
  • ④ 空港のストップライト(離陸許可が出た航空機に、地面に設置されたライトの列が航空機を滑走路に誘導する装置)が、昨年暮れから故障していたが、修理されていなかった。

同様なことを指摘しながら堀江貴文氏は、この事故を運輸安全委員会ではなく、警察が取り調べを始めていることに、原因が正しく究明できないのではないかと危惧されている。運輸安全委員会では、発言内容が法的に免責されるので正直に話すが、警察の取り調べは、刑事責任を問われる可能性があるため、正直に話さないだろうという。関係者が正直に話して、事故原因を正しく知るということが、犯人捜しより大事なことは言うまでもない。

おしまい

経済学者も国債買入に日銀当座預金が使われると理解していない 国債を応札しているのは外国企業だ 《森永卓郎×土居丈朗「財政均衡主義」はカルトか》の論争から

東スポの記事から(安藤裕さんの説明をお聞きします。)

1.経済学者にはどんな流派があるか

親爺が理解している経済学の流派はこんな感じである。

ヘリコプターマネーの思考実験で経済の拡大を提唱したミルトン・フリードマンを源流とし、新自由主義を旗印にするのが、新古典派といわれる《主流派経済学者》である。主流派ではないが、他の流派にはケインズの流れを汲む《ポストケインジアン》と、アベノミクスを裏でささえた金融政策を重視する《リフレ派》もほぼ主流派といっていいだろう。最近は、行動経済学という名前もよく聞く。最後が、管理通貨制度へ変わることで、通貨発行(信用創造)のパラダイムが変わったという《MMT派》(現代貨幣理論)である。

MMTは、債権・債務を発生させない通貨の所有権移転はないと考える。よって、ヘリコプターマネーはできないという立場である。もし本当にヘリコプターからお金を撒いたら、撒いた人に損失が発生し、拾った人には利益が発生する。損失は資産を取り崩して埋めたり、処理する必要がある。言い換えると、ヘリマネは、サステナブルではない。

経済学は、もともと学者の数だけ経済学があるともいわれ、混とんとしていると言えるかもしれない。

2.主流派経済学者は、国債の購入が『日銀当座預金』を使って行われることを理解していない。

ここずっと30年にわたる日本のデフレについて、財政拡大派と財政均衡派の意見が衝突し、まったく噛み合わない。このブログに登場しないが、新型コロナウイルス感染症対策分科会メンバーを務めた主流派経済学者の代表格の小林慶一郎さんも、「『オオカミ少年』とずっと言われてきたが、それでも政府債務膨張への警告を発することを止めない。」とおっしゃる。こうした主流派の経済学者たちは、国債発行残高が増えると、国債価格の暴落や金利の暴騰が起こるとなぜ危惧するのか、その理由を親爺も述べたい。

今回は、下の記事をとりあげた。雑誌、東洋経済にのった森永卓郎さんと土居丈朗さんの討論記事である。森永さんが『ザイム真理教』を発刊し、やはり主流派経済学者の代表格の土居さんと議論されている。

https://toyokeizai.net/articles/-/721495?page=3  ☜ こちら記事のリンク


この主流派の経済学者たちの間違った主張が、次の土居さんの発言に端的に表れている。

  • 「(過去に)財政赤字を出しても、日銀が国債を買えたので国債暴落が起きなかっただけだ。しかし今後はインフレが起きうる状況となっており、これまでと同様にはいかない。日銀も国債をずっと持ち続けることはできなくなる。物価高対策で、いずれは市中に事実上売らざるをえない。・・・インフレ期に、日銀が国債を買って通貨供給を増やせば、インフレをあおることにならないか。」と言われている。

「日銀が国債を買えたので国債暴落が起きなかった」と土居さんはこうおっしゃるが、そもそも日銀が異次元の量的緩和で、日銀当座預金という通貨を生みだし、それを原資に市中銀行が国債を購入していることを理解していない。同じように、日銀が国債を市中銀行から買い入れる時にも、日銀当座預金を使って行う。(とうぜん、債権債務がやりとりされる。)くりかえすが、この原資である日銀当座預金は、日銀が通貨発行して生み出したものだ。そして、この日銀当座預金は日銀の行内だけでの取引であるから、市中に影響がない。ここのところを、主流派経済学者の土居さんは理解していない。市中銀行が新発債の国債を買い入れするときも同様である。

つまり、日銀が既発債である国債を市中銀行から買うのは、《日銀当座預金》という日本銀行の中でしか使われていない通貨で行われていることを理解していないから、市中の取引、マーケットの預金流通量を減らして、金利上昇が起こると考えている。

なお、市中銀行が新発債の国債を必ず買うのも、日銀当座預金である。主流派の経済学者たちは、市中で流通している通貨(個人や企業の預金)で、国債が消化(買い取り)されていると思っている。(これは、最後に述べる。)

これらの取引は、国民生活に影響しない。政府が発行する国債を買うのは市中銀行である。市中銀行は、日銀から通貨発行された資産である日銀当座預金(裏には《借入金》という負債を負っている。)を原資にして、国債を買い入れる。つまり、市中銀行が手にしている日銀当座預金という資産が、国債という資産に振りかわっただけだ。市中銀行は日銀当座預金を持っていても基本的に利子がつかないので、少しでも利子がつく国債を必ず購入する。このように、日銀と市中銀行のあいだで、お互いに日銀当座預金と国債の残高を増やしただけでは、市中、つまり国民生活に直接の影響はない。日銀のなかにある政府口座のお金を、政府が予算執行するまで市中、国民生活になにも影響はない。政府が予算を使ってはじめて、国民の財布は豊かになる。もちろん、民間企業が使っても国民(と政府)の財布は豊かになるのだが、今のデフレ状況では、民間企業にそれを期待できない。

つまり、誰か(政府か企業のどちらか)が負債を負わないと、国民(消費者)の財布は豊かにならない。高度成長期は、企業が莫大な借金を抱えて経済のパイが成長したから、政府支出を増やさずとも、国民の財布は豊かだった。いま企業も政府も負債を負うことをしなかったら、国民の財布は空っぽなままだ。

主流派経済学者の財政均衡を主張する理由のほとんどは、国債がどんどん増発されると、やがて引き受け手が無くなり、国債価格の低下をもたらし金利が上昇し、ついにコントロールできなくなるというものだ。土居さんが、『日銀も国債をずっと持ち続けることはできなくなる。物価高対策で、いずれは市中に事実上売らざるをえない』と言うのは意味不明だが、もし日銀の持っている国債を売って、政府の予算執行に使う日が来るというのであれば、バカかといいたい。通貨を発行しているのは日銀だぞといいたい。 

黒田日銀の異次元の量的緩和(QE)を、何年も続け、日本は、特段の弊害を生じることなく、国債価格も金利も日銀はコントロールできた。成長できなかった理由は、量的緩和の失敗ではなく、財政支出が足りなかったのが明らかだ。欧米諸国は、日本の量的緩和を見て、何の悪影響もなかったと分かって、このコロナの時に追随した。欧米は、量的緩和をするだけでなく、財政支出も急拡大させた。(やりすぎて、烈しいインフレになったが・・。)

下の動画で、前衆議院議員で公認会計士の安藤裕さんが解説をされている。5分15秒のところを、ぜひ見てください。「日銀が国債を買っても市中にお金は回りませんから」「日銀当座預金が積みあがるだけで、日銀当座預金は一般の人が手に入れることができないお金なので、市中の通貨供給量は増えないんです」と言われている。

主流派経済学者の皆様、お願いします。なんとか考えを改めてください。あなた方と財務省の考えが、30年間、日本中を席巻しているから、マスコミもあなた方に忖度し、国民の大多数が、日本は借金で首が回らないと思っています。日銀がやっている実務を見てください!!

冒頭にも写真を掲げた安藤裕さんは、自民党時代に積極財政を訴えていたが、不倫報道があり再出馬を断念された。現在は、YOUTUBEに積極財政の動画を上げ、財政拡大を訴えるため「赤字黒字」というコンビで、漫才師の登竜門であるM1グランプリにも出場されている。

3.国債はどのようなプロセスで発行され、保有されているか

親爺は、以前実際に国債を買っていた時期があった。それでは国債は市中のお金を使って買われているのだろうか? その答えは、ごくごく一部にあるという答えになる。

下がの図が国債を誰が保有しているかというチャートだ。これを見ると、日銀当座預金を使える立場にある、日本銀行、市中銀行、証券会社等の割合は、58.8%である。保険・年金基金と公的年金を足すと23.74%になる。両方足すと82.54%になる。ここにある保険・年金基金と公的年金は、事業の性格上、顧客から得た資金の運用にリスクの最も少ない運用先として国債を選んでいると考えられる。ネットで見ると、これら法人は、証券や銀行などの日銀に口座のある金融機関から購入しているようだ。

つまり、日銀当座預金で国債を購入できる市中銀行(市中銀行と証券会社等)が、国債を引き受け、市中に売っている。それらを買うのは、保険、年金基金、公的年金など消費者保護のために法律で資金運用に制限がある法人である。日本国債は利率も、銀行の定期預金と同じほど現状は低いので、大した魅力はない。つまり、金融機関や保険、年金を扱う会社にとって、国債は安全で、現金で持つよりは、少しは金利が付くから選択されているにすぎない。

外人が13.14%保有しているのだが、昨年あたり、日本国債をカラ売りして暴落したところで買い戻して大儲けしようとしていた外国ファンドの存在が報道された。これは、過去ずっとこのような馬鹿な外国ファンド「未亡人製造機」がいるのが不思議なのだが、変動相場制度を採用しており自国通貨で国債を刷れる国相手にやっても無駄だということが分かっていないとしか思えない。(ジョージ・ソロスが、固定相場を守ろうとする英国相手に、国債のカラ売りをして大儲けしたことがある。)現在は、諸外国の金利がずっと高いので、日本国債は安全だという以外に投資先として魅力がない。

4.なんと!!日本国債の入札参加社の半数以上が外国企業だ!!

ここで親爺は、国債の発行プロセスを調べながら、違うことを知ってしまい驚いた。日銀当座預金を使って日本国債を買っている金融機関の多数が外国企業になっている!!

下の表は、財務省が国債発行の際の手続きを改めた平成16年の「国債市場特別参加者の指定等について」で、国債入札への応札・落札等に関する一定の責任を果たす者を「国債市場特別参加者」として指定した者のリストだ。

こんなことでいいの?外国企業がこんなところで儲けているのよ!!

おしまい

小説グレン・グールド「はじめに」をリライトしました

はじめに

クラシック音楽の世界に、グレン・グールドという多くの音楽評論家が《異端》で《エキセントリック(変人)》というピアニストがいた。ときに作曲家が書いた楽譜に手をくわえ、しばしば書かれた音楽記号を無視した演奏をして、身なりも振る舞いも非常に変わっていた。

彼は、カナダ、トロントに生まれたピアニストで1932年に生まれ、1982年に没した。生まれて92年、亡くなってから42年が過ぎた。

1932年といえば、第二次大戦へ向かう世界恐慌のさなかで、職を失い食事にもありつけない人々が世界中に溢れた時期だった。だがカナダは戦争の影響はすくなく、彼の家は裕福だったので影響はほとんどうけなかった。第二次大戦が終わった1945年から、彼が死んだ1982年までといえば、世界中が民主主義を謳い、自由と平等へと全速力で走り、人類が一番幸せな時期だった。もちろん資本主義と共産主義のふたつの陣営が対立し、人種差別もはげしかった。いっぽうでプレスリーやビートルズがでてきてそれまでのかたくるしい既成概念を破壊し、人々の生活はまえより格段に向上し、人々は希望をいだいていた。若者が社会をリードした”Love and Peace”の時代だった。

グールドには、べつに進行するものごとを同時並行的に把握するという、一般の人にはない特殊な才能があった。グールド研究家のケヴィン・バザーナは、「グレン・グールド神秘の探訪」[1]で、こう書いている。

「グールドの脳は日常生活においても対位法的[2]な調子で動いていた。レストランやその他の場所で、グールドは他の客たちのそれぞれの会話を同時に盗み聞きするのが好きだった。また、原稿を書き、そして音楽を聞きながら、電話で話をすることがあったが、その3つの行為を同時に完璧にこなすことができるのだった。」

彼の不倫相手だった画家のコーネリアは、映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」[3]のなかで、グールドがテレビドラマを見ながら楽譜を覚えていたエピソードを語っている。

「テレビドラマも子どもたちと楽しんだ。テレビを見ているときも、グレンは、楽譜を広げていた。観ながら覚えてしまうの。一緒にドラマを観たあと腑に落ちない点をグレンに尋ねたものよ。ドラマの展開のことをね。グレンは、テレビの内容もすっかり頭に入っていて答えてくれた。そのあいだに楽譜もすっかり覚えていた。とても驚いたわ。」

グールド自身も、一番楽譜をよく勉強できるのは、テレビをつけ、ラジオでニュースを流しているときだと言い、3つを同時に理解していた。

グールドは、ピアノを弾くとき、弦楽四重奏を奏でる4人を頭の中にイメージしていた。ソプラノである第1ヴァイオリン、アルトの第2ヴァイオリン、テノールのヴィオラ、バスのチェロ奏者が、頭の中で演奏していると思いながら指を動かしていた。

このような彼の演奏には、いくつかの特徴があった。

多くのピアニストは、バッハがポリフォニー[4]で書いた曲を演奏しても、高音のメロディーとバスの音だけがずっと鳴っていることがある。というのは、現代の音楽は、基本的にメロディーと伴奏の和声のからなるホモフォニー[5]といわれる。このホモフォニーで書かれた音楽をまず身につけようとピアノを学習し、過去の音楽様式ともいえるポリフォニーは学習機会がすくない。

いっぽうバッハの音楽は、ポリフォニーからホモフォニーへの過渡期にあった。ポリフォニーとは、複数の旋律がどうじに進行する。グールドは、高音と低音の中間にある《内声》にもスポットライトをあて、その旋律も浮かび上がらせた。まるでふたりで連弾しているかのように弾き、高音、内声、低音どれも交代させながら主役の座につけた。たとえば、ソプラノのメロディーからアルトのメロディーへと、テノールからソプラノへと、また、他のピアニストとくらべると、足でバスのメロディーを弾くオルガンを習っていた経験をしていたので、バスの旋律をピアノでも強調し、旋律が喧嘩しないよう調和をとりながら、自分の考える強調したい声部が応答するように弾いた。

また、彼の演奏の基本は、音を短く区切るノンレガート(スタッカート)にあった。ピアノ学習者は、ピアノはレガートに弾く楽器だと教わる。「音はポツポツ切って鳴らしてはダメです、音符のつながりを意識して、なめらかに音をつなぎなさい」と教わる。しかし、レガートだけの演奏では、表現のバリエーションがかぎられる。変化をだすためには、小さい音で弾くか大きい音で弾くか、速く弾くか遅く弾くかしかない。もし聴くものを圧倒して感動させたかったら、大音量で弾くか、高速度で弾くという方法しかない。

彼はレガートを《緊張》であり、ノンレガートを《弛緩》であり《透明感》だと考えた。楽譜どおりに鳴らされるノンレガートの音は、音が実際に繋がっていなくとも、繋がっているように聴こえる。レガートは、ここぞという美しく緊張感のある場面に取っておいた。[6]

彼が、聴くものを圧倒するには音量も速度も必要なかった。静かに遅く弾いても圧倒できた。それは、圧倒的に正確で、どんなに、速く弾いてもおそく弾いても崩れない自由自在のリズム感があるからだった。

こうして彼は、10本しかない指でソプラノ、アルト、テノール、バスのメロディーを同時に弾き分けながら、しかもレガートとノンレガートを使い分け、引き立たせたいメロディーを変えていた。

この彼のテクニックが良くあらわれている演奏に、もっとも高い評価をしたJ.S.バッハが18世紀半ばに作曲した「フーガの技法」という曲がある。グールドは、18世紀に作曲された曲の中で、ふつう、最高の曲はその世紀にいちばん流行ったスタイルで書かれた曲のなかにあるが、この曲は当時の流行に背をむけていたと評していた。バッハが、流行が、メロディーと伴奏の和声を重視するホモフォニーへと移りつつあるなか、流行に背を向けて人気が廃れたポリフォニーの終着点であるフーガにこだわっていたといっていた。

しかし、彼はピアノで正規録音をだすことは、最晩年までひどく怖がっていた。なぜなら、この曲を録音するのが恐ろしかったから[7]である。

まだグールドがまだツアーをしていた1962年、オルガンで「フーガの技法」の前半部分だけを愉悦にあふれ軽快で、やはりノンレガートで弾いた正規録音を残した。やはり、新しい解釈の素晴らしい演奏だったが、批評家はこの演奏をオルガンらしくないといって酷評した。ところが、グールドは、コンサート・ツアーではピアノを使い、オルガンとは180度ちがった演奏をしてみせ、シュヴァイツァーがいう「『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』を描いていた[8]

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この曲の弾き方にグールドの技術がよく現れている。テーマである第1曲の4声のフーガは、アルトで始まり、5小節目からソプラノ、9小節目からバスが入ってくる。どんなピアニストでも、曲の冒頭部分では、自分の技量をじゅうぶんわかってもらい、観客のこころを掴みたい。そのために最善をつくして弾きたいと思うので、ほとんどのピアニストがアルトの4小節を左手で弾きはじめ、ソプラノの4小節を右手で弾きはじめる。ところが、グールドは、8小節のアルトとソプラノの両方を右手で弾き、空いた左手は右手の指揮をし、9小節目になってやっと両手で弾きはじめた。

「フーガの技法」の第1曲(対位法1番)グールドは、8小節まで右手だけで弾いた。

また、多くのピアニストは音を長く延ばすためには、指で鍵盤を抑え続けるより、すぐにペダルを踏む。それが簡単だからだ。グールドはペダルをほとんど使わず指を持ち替えながら弾く。このため音が混じらず、クリアで非常に美しい。

そうした違いに加え、最大の違いは、楽譜に手を加えることをためらわないことだ。彼の演奏は楽譜に書かれた音高と音長は変えないとしても、それ以外は楽譜に囚われない。どうしたらその曲の最善を引きだせるかを、自分の頭で考える。クラシック音楽界の伝統は、作曲家の意図をできる限り忠実に再現することを最重要視する。ところが、ベストな演奏にするために再作曲をする。そんな彼の演奏は、例えばベートーヴェンの『月光ソナタ』や、美しいアルペジオで始まるバッハの『平均律クラヴィーア集第1巻第1番前奏曲』といった誰もが知っているような有名な曲であるほど、誰もやらない奇抜な演奏をした。これはあまりに挑発的で、評論家や音楽界の重鎮だけでなく、リスナーの度肝も抜いた。これをもっとも徹底的にやったのが、「死ぬのが早すぎたのではなく、遅すぎた」と彼がいうモーツァルトのピアノ・ソナタの演奏だった。彼は、モーツァルトが書いた美しいピアノ・ソナタ全曲に、新しい旋律の声部を書き足し、「曲が良くなったかはともかく、ビタミン剤を注入した」と言ってはばからなかった。そうした彼の強い主張は、もちろん音楽界の重鎮や音楽評論家たちとのあいだに衝突をひき起こしたが、一切の妥協をしようとしなかった。


彼は、椅子の脚を15センチほど切り、ピアノの3本の脚を3センチほどの高さの木製のブロックの上に乗せて演奏した。手首を平らにして指で鍵盤を引っ張るように弾くので、力が抜けた自然で美しくはっきりとした音を出した。爆発するような大音量は出せず、何千人もはいるようなコンサートホールの隅々まで届かないかもしれないが、粒が揃った美しい音色を出した。コンピューターのような明晰なリズムはビート感があり、情感たっぷりで落ち着いた現代的な旋律が、聴く者を魅了した。

鍵盤をうえから体重をかけて叩くのではなく、低い位置でピアノを弾き、すべての音をコントロールしようとしたのには、かるく反応のよい鍵盤のピアノに執着したことも大いに関係がある。グールドの最大の理解者で友人のP.L.ロバーツは、「グレン・グールド発言集」で、グールドから「息を吹きかけてもキーが下がらないピアノは弾きたくないね」[9]というのを聞いている。グールドは、それほど反応の速い、軽いタッチのピアノを求めていた。

もうひとつの演奏の特徴に、《エクスタシー》があった。彼が演奏をはじめると、すぐさま、彼は現世の浮世から離れて、恍惚とした音楽の世界へ行ってしまうように見えた。これをやはり、コーネリアが映画の特典映像「コーネリア・フォスが語るグールドの哲学」で語っている[10]

「自分に酔うことと、自我を超越することは矛盾しない。それどころか相乗効果がある。自分に陶酔すればするほど、自我を超越したいと思うものよ。当然のことね。演奏中のグールドは、超越していた。個人としての欲求や恐れなど世俗的な感情を忘れ去ってしまうの。自分自身を森羅万象と融合させることができた。自分を取り巻く宇宙と一体化して人間としての存在を深めていくことができるの。ヴァイオリニストやチェリストでも同じ。偉大な演奏家ならではの神秘的な境地ね。演奏技術の問題でなく大きな何かが働くの。」

この話には、ふたりのユーモアを示すオチがある。

「ある日、グレンが帰ってくるなり息せき切って話し始めた。『大変だよ。』『なんなの?』と尋ねたわ。『グレン・グールドの精神』という講座がトロント大学で開かれていると言うの。彼は身をよじって笑っていた。おかしくてたまらなかったのね。『聴講しなきゃならないよ。うまく変装して行こう。最後列に座ればいい。勉強になるぞ。』言うまでもなく、2人とも行かなかったわ。だから『グレンの精神』はわからない。」

母親の不安症が原因で、彼は子供のころから薬物に依存していた。向精神薬を飲みすぎて精神に不調を来すまでになったのは自分を守るためだった。その依存症は、年月を経るほどに激しくなり、やがて、幻影や被害妄想に()りつかれるまでになった。音楽に追い詰められ、音楽だけが彼を救うことができる唯一だったのは皮肉だった。

彼は芸術家としての責任をいつも感じていた。見せたい自分を生涯にわたって演じ続け、音楽にすべてをささげていた。音楽で結婚しなかったし、薬物依存になったのもこの強迫観念が原因だった。

彼がデビューしたとき、すばらしくハンサムなジェームズ・ディーン[11]の再来だと音楽誌だけでなく一般誌まで騒いだ。一方で彼は、映画王、航空王で潔癖症だった世界一の大富豪ハワード・ヒューズのように生きたいと公言して、ずっと世間の目を隠してきた。それが原因で、ゲイとかホモとか、ノンセクシャルと言われるのを知っていたが否定しなかった。だが、近年、ゲイどころかプライベートな生活では、実に多くのロマンスがあったことが女性たちへのインタビューでようやく分かった。数々のロマンスが世間に知られなかったのは、グールドが、女性たちをそれぞれ孤立させ口止めをしていたことと、私生活を詮索するような人物がいると、交友をすぐに断ったから周囲の人たちはグールドの私生活を詮索しなかったからだった。そして彼女たちは、グールドに忠誠を誓い、守ろうとしたからだった。

この多くの女性関係を明らかにしたのは、映画「グレン・グールド《天才ピアニストの愛と孤独》[12]」の原作本である「グレン・グールド・シークレットライフ《恋の天才》[13]」を書いたマイケル・クラークソンだった。彼の女性関係は、この原作に基づいている。

グールドは全般に率直な人だったが、本質的な性格は分かりにくい。私生活を隠していたからということもあるが、非常に感受性が強く、才能は一般の人とは比べものにならないほど大きかった。話すことも書くことも核心をついていながら、言い回しは遠回しだった。しかも彼自身ずっと様々なことに格闘していた。親の世代から譲り渡された宗教観や道徳観との葛藤もあったし、自分を真の芸術家だと考えて、芸術家はこうあるべきだという思いも強かった。

グールドに関する伝記や評論は非常に多数ありながら、人物像の核心部分を知るのは難しい。しかし、これまでに書かれた多くの著作を辿ることで、彼の本性に極力近づきたいと思っている。

なぜなら、ひとりでも多くグールドの演奏を聴いて欲しいからである。

おしまい


[1] 「グレン・グールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ サダコ・グエン訳 白水社) 第5章「アーティストのポートレート」 P423

[2] 対位法 複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和させて重ね合わせる技法

[3] 映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」特典映像にでてくる

[4] ポリフォニー・ ポリフォニーは複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。

[5] ホモフォニー バッハ後盛んになったホモフォニーには、最大の特徴は主旋律と伴奏という概念がある。

[6] グールドは、レガートとノンレガートの奏法について「グールド発言集」、「異才ピアニストの挑発的な洞察」P279で、「私がレガートの旋律よりもスタッカートの旋律が好きなのは、・・・孤立したレガートの瞬間を非常に強烈な体験にしたいからです。実は私は潔癖なものにあこがれる人間でして、デタシェを基本としたタッチを支配的に用いるときに得られるテクスチュアの透明感が大好きなのです。ところが、さらに、デタシェの響き方を支配的に用いるとき、ほぼすべての音が、次の音からの分離をかなえる独自の空間を備えるようになったところでレガートの要素を導入します。するとたいへん感動的なものが生まれます。それはある種の情緒的な流れですが、もし、ピアノはレガートの楽器であり、音はなめらかなほどよいのだ、という通常の仮定をしていたら、音楽に現れようのないものなのです。」と書かれている。

[7] 怖がっていた 「グレン・グールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)で「最後の清教徒」P475に次のように書かれている。《ブリュノ・モンサンジョンが作った「グレン・グールド・プレイズ・バッハ」で、この番組は未完に終わった最後のコントラプンクトゥス(対位法)を弾いて幕を閉じるのだが、グールドはこの作品を「人間がこれまで構想したなかで最も素晴らしい曲」と呼んだ。実はグールドはそれまでこの曲を演奏したことがなく、怖気づいていた。「これまで取り組んだなかで、一番難しいことだ」と述べている。グールドはこの曲についてまったく異なる4通りの解釈を検討したあと、結局は哀調を帯びた、非常に内省的な演奏を選んだ。・・・》

[8] ピアノによる「フーガの技法」の演奏は、モンサンジョンと作った「GGプレイズバッハ」の中でこう語っていた。《「あの未完のフーガは確かに情にも訴える。何しろバッハの絶筆だし[・・・]しかし本当の魅力は平穏さと敬虔さ。本人も圧倒されたはず。このフーガに限らず曲集全体に言えるのは、バッハが当時の音楽の流行全てに背を向けていたことだ。彼の晩年、フーガは流行らなくなっていた。[・・・]フーガでなくメヌエットの時代なのにバッハはきわめて意識的に自分の和声のスタイル変え[・・・]別の地平に達していた。バッハは100年以上さかのぼり、対位法や調性の処理法を借用した。バロック初期の北ドイツやフランドルの作曲家のもので、調性を使いながら鮮やかな色彩を避け、代わりに薄い色合いが無限に続く。私は灰色が好きだ。シュヴァイツァーがいいことを言っている。『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』と」未完のフーガの最後の音を弾いた瞬間、グールドは感電したように左手をさっと持ち上げる。映像は静止し、腕は宙で凍りつく - 「あらゆる音楽の中でこれほど美しい音楽はない。」この未完のフーガを弾くグールドの姿を見た者は、この瞬間の映像を決して忘れることができない。(訳:宮澤淳一)》

[9]「グレン・グールド発言集」(P.L.ロバーツ 宮澤淳一訳 みすず書房)中、「はじめに」で、P5に「息を吹きかけてもキーが下がらないピアノは弾きたくないね」と書かれている。

[10] 映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」特典映像「コーネリア・フォスが語るグールドの哲学」

[11] ジェームズ・ディーン:(James Dean、1931年- 1955年)は、アメリカの俳優。孤独と苦悩に満ちた生い立ちを、迫真の演技で表現し名声を得たが、デビュー半年後に自動車事故によって24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優である。

[12] 映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」監督:ミシェル・オゼ、ピーター・レイモント 角川書店、2012年発売

[13] 《The Secret Life of Glenn Gould: A Genius in Love》 Michael Clarkson ECW press

パーティー券裏金事件 《タッグ 麻生副総理・財務省・特捜検察》再度のどんでん返しはあるか? 

パーティ券裏金問題で、政治がこれ以上ないほど面白いことになっている。自民党が解体してもおかしくない。

神戸学院大学の上脇教授が、政治資金収支報告書を地道に調べ上げ、派閥が開催するためのパーティー券を売りさばく際に、議員が集めてきたお金がキックバックされていたり、割り当て分だけを派閥へ納め、上回った額は毎年、ポケットに入れてきたと告発された。これは何十年も前から行われてきた慣行であり、与野党を問わず、どこの派閥でもやってきたらしい。時効が5年のため、その5年間の額が自民党で1億円だと、最初、報道されていた。ところが、この1億円は、裁判で立証できる金額であり、どうやら実際ははるかに多いということらしい。

現在のところ、マスコミが報道しているのは、自民党の二階派もわずかにあるが、安倍派のみで、他の派閥(麻生派、茂木派、岸田派)は、特捜部が調べているにも拘わらず、そちらはほぼマスコミのニュースに取り上げられていない。マスコミへ検察が安倍派に限ってリークしているからだ。

岸田政権は、ずっと人気が低迷してきた。ここへ来て大臣政務官、副大臣が次々辞任へ追い込まれたが、これは岸田政権を見限った財務省が不祥事のネタをマスコミへリークしたからだと言われている。

つまり、今回の岸田総裁追い落とし騒動も、財務省がシナリオを描き、そのシナリオに従って、茂木さんを総理大臣にしたい、石破さんを担ぎたい二階さんを落としたい、最大派閥の安倍派と二階派を潰したい麻生副総理がそれに乗り、その策略に検察も乗っかっていると言われる。

もちろん、財務省が裏で糸を引くそのようなシナリオを描き、東京地検特捜部が、マスコミにニュースネタを限定的に流しているとまるで小説のようなことが行われていると確信を持って言えることではない。

しかし、自民党の安倍派には、積極財政を唱える議員が多い。安倍派潰しとは、積極財政潰しでもある。財務省は、国債は将来償還しなければならないので子孫にツケを残すというが、実際のところ、国債は償還せずに借り換えているし、このような不景気を脱出するには、積極財政が必須である。

国民も財務省の長年の宣伝を信じているので、一人当たり約1千万円の借金を背負っていると思う人が大半だろう。国会議員の中でも正しい経済観を持っている議員は、数少ない。

親爺が知っている範囲で、現職の国会議員では、国民民主党の玉木雄一郎、立憲民主党の原口一博、自民党の高市早苗、西田昌司、「責任ある積極財政を推進する議員連盟」の代表中村裕之や顧問の城内実ら100人ほどいる。議員連盟に名前がある自民党の議員は安倍派に限らないが、安倍派が多いのは間違いがないだろう。

親爺は思っている。財務省は、警察(検察)権力と密接なだけではなく国税当局とも密接である。国会議員や財界人などの多くの世間で上に立つ人に限らず、多くの庶民も秘密を抱えている。財務省は、気に入らない人物は、警察を使って身辺を調べたり、国税当局を差し向けて税務調査に入るという。

麻生副総理もきっと脛に傷があるだろう。表立って財務省に反旗を翻すことは出来ないかもしれない。だが、こうして日本を鍋をひっくり返すように、有象無象の代議士たちを地獄の底へ落して、芥川龍之介のクモの糸を登ろうとする国会議員が、結局は地獄の底に全員落ちてはじめて、《じつは、麻生副総理は、他力本願ではあるが、日本を新しい社会へ作り変えられるかもしれないと思っている》ことを期待して止まない。

おしまい

次の動画は、国民民主党の玉木雄一郎の動画です。この人の言うことは正常です。正しい経済観をお持ちだと思います。

こちらは、元朝日新聞記者の鮫島浩さん。正しい経済観を持たれているようには思えないので親爺はあまり好きではないのですが、政治分析は大したものだと思います。

こちらは、山口敬之さん。伊藤詩織さんレイプ事件で損害賠償を命じられたので、この人の話は信じられないという人は多いでしょう。親爺もそうです。しかし、鮫島さん同様政治の分析に説得力があります。

第17章 グールドが小澤征爾とトロントで会う

小澤征爾(Wikipedia1963年)
武満徹(Wikipedia)

グールドは、クラシック音楽界の伝統にはずれた奇抜なことを言い、重鎮たちが認めたがらない演奏をした。しかし、生み出された音楽の本質的な部分は、伝統にのっとったひじょうにオーソドックスなものであり、誰もが納得し共感できる種類の音楽だった。

同様に小澤征爾も、語り口は穏やかでノーマルな紳士だが、彼がやることは、音楽においても私生活においても、フロンティアをつき進む破天荒な冒険者である。

小澤征爾の生い立ち

1935年、小澤征爾は歯科医の父のもと、中国、満州の奉天(現、瀋陽)で男4人兄弟の3男として生まれた。グールドより3歳若い。父は歯科医だったが、政治にのめり込み、事業に失敗し貧しかった一方で、政治家や経済界にも知己が多かった。彼が音楽に初めて接したのは、小学校4年のときにピアノに触れたのが最初で、ピアニストを目指していた。ところが、野球とラグビーをずっと続けていた彼は、中学3年のときにラグビーで両手の人差し指を骨折した。これが原因で、ピアニストはあきらめ、指揮者をめざすようになった[1]

クラシック音楽をやるには外国へ行くしかないと考えた小澤は、外国へ行くその前になんどか苦杯を舐めていた。桐朋音楽短大の同窓生が音楽留学につぎつぎと渡欧するなか、彼は羽田空港で仲間を見送るばかりで、その中には、のちに結婚する江戸京子もいた。そして、迎えた卒業式では、単位不足を知らずにいて、卒業ができず留年をしてしまった。そのあとフランス政府給費留学性に応募するが、友人は合格し、彼は不合格になった。その友人は、パリ国立高等音楽院、コンセルバトワール[2]へ入学した。

23歳の小澤は、とにかくクラシック音楽の本場であるヨーロッパへ行くしかないと考えた。だが、小澤家には3男の彼を渡航させる余裕がなかった。

落ち込んでいる彼を見て、声をかけてきた女子学生に悩みを打ち明けたところ、彼女は父に相談してみたらと言った。彼女の父は、日本フィルハーモニー交響楽団の設立に尽力し、クラシック音楽に理解のあるサンケイ新聞社長の水野茂夫だった。この水野が50万円の資金援助をしてくれた。50万円は、当時の平均的な日本人の給料の額の約2年分の額だった。

また、小澤は、三井不動産社長で江戸京子の父の江戸英雄に前から世話になっていた。江戸英雄は、妻がピアニスでありト、長女の江戸京子もピアニストを目指していた。彼は、旧三井財閥の実力者であり、世話好きで誰であれ分け隔てなく接し、独自の人脈をつくっていた。そうした彼は、桐朋音楽学校の設立に尽力していたので、遠方から通学する小澤を自宅に住まわせて面倒を見ていた。小澤はのちに、京子と結婚するが、江戸は、「京子は、強い性格で個性が強烈だから」とこの結婚にずっと反対していた。

江戸の手配で、小澤は渡欧するのにフランスのマルセイユへ向う貨物船に乗せてもらえることになった。彼は、フランスへ着いたあとの移動のために、日本製品の宣伝になると言ってスクーターの提供を自動車会社に片っ端から電話をかけて依頼をした。かいあって、富士重工業製の125CCのスクーターを手に入れた。

1959年3月、約2ヶ月の航海ののち、マルセイユ港に着くと、約束どおりヘルメットに日の丸をえがき調達したスクーターに乗り、音楽家とわかるようにギターを担ぎパリへ向かった。そして、さきに留学していた江戸京子と合流した。江戸英雄は、小澤を指揮者としてデビューできるまで援助していた。

京子からブザンソン国際指揮者コンクールが開かれると聞き出場した小澤は、みごとに優勝した。コンクールの会場に来ていた彼女に通訳を頼み、小澤は、打ち上げのパーティーに来ていた世界屈指の大指揮者のシャルル・ミンシュ[3]に「弟子にしてください。」と申し出た。

小澤は、コンクールで審査員をしていたミンシュが指揮するベルリオーズの『幻想交響曲』を聴き、「こんな指揮者がいるなんて信じられない。長い指揮棒でもって、魔法をかけられたようだ。どうしたらあんなみずみずしい音楽がうまれるのだろう。」と感動で、居てもたっても居られなくなったからだった。

ミンシュに、「弟子は取らない。そんな時間はない。」と言われたが、ミンシュは「来年の夏にタングルウッドに来るなら教えてもいい。」と付け加えてくれた。

1960年7月、タングルウッド音楽祭[4]でもミンシュの指導を受けられるのは3名だけの狭き門だった。しかし、小澤はオーディションを見事に1位で通過したうえ、最優秀賞の「クーセヴィッキー大賞」を受賞した。この賞は、過去にレナード・バーンスタインやクラウディオ・アバドも受賞していた。この音楽会には、アメリカの批評家ハロルド・ショーンバーグがいて、小澤をニューヨーク・タイムズで激賞する記事を書いた。

ハロルド・ショーンバーグは、グールドのバーンスタインとブラームスのピアノ協奏曲第1番の遅い速度の演奏を酷評したニューヨーク・タイムズの音楽批評家[5]である。こうした批評家たちの非難がグールドのコンサートのドロップ・アウトを後押ししたのは間違いない。

「クーセヴィッキー大賞」大賞の受賞を勧めたのは、シャルル・ミンシュ、クーセヴィッキー夫人とアーロン・コープランド[6]らで、小澤は、クーセヴィッキー夫人、ハロルド・ショーンバーグにその後の進路として、ニューヨーク・フィルハーモニーのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろうと勧められた。

小澤征爾は、すぐに、9月に、カラヤンが主宰する弟子をとるためのコンクールへ出るため、パリを経由してベルリンへ向かった。カラヤンは、半年間に、1ケ月に1週間ほどのペースで弟子を指導していた。彼はこれにも合格し、3週間パリで働き、1週間ベルリンでカラヤンの指導を受けるという生活をはじめた。

ちょうどそのベルリンに、バーンスタインが指揮するニューヨーク・フィルハーモニーが演奏会のために来ていた。小澤は、レセプションに出席した。バーンスタインは小澤征爾をすでに評価し副指揮者に雇おうとしていた。10人ほどの審査委員の面々から面接のようなものを、ストリップショーをやっている「リフィフィ」という妖しげなバーで受けた。英語ができない小澤だったが、採用を知らせる手紙が届いた。ニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者の初認給は、週100ドル[7](月400ドルは、日本人の平均的給与の8.5か月分)だった。

小澤は、長年海外生活を送ってきたが、語学を上達しようとはしなかった。肝心なことは音楽と指揮であり、結果を残すことだと考えていた。そんな彼は、指揮者でありながら演奏会後のパーティーにほとんど出席せず、朝早く起きて、ひとりでレコードを聴いたりスコアを読む生活をつづけた。こうして無名だった日本人青年は、1960年の7月から9月までのわずか3か月の間に、ミンシュ、カラヤン、バーンスタインと3人の大指揮者のセレクションに合格し、弟子となった。

1961年3月、小澤征爾は、ニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者になるためにアメリカへ向かい、さっそく翌4月に、ニューヨーク・フィルハーモニーの初来日にあわせて凱旋帰国した。飛行機が羽田空港に着きハッチが開いたときに、彼は真っ先に降りるようにタラップへ押し出され、バーンスタインは、小澤と肩を組み、親密ぶりを印象づけた。

日経新聞から

小澤は、バーンスタインの副指揮者を1年間だけで辞めた。副指揮者は英語では、アシスタント・コンダクターだが、アシスタント・コンダクターは4人いた。バーンスタインがミトロプーロス[8]の下で長く副指揮者をしなかったように、彼も、いつまでも副指揮者でいるつもりはなかった。1962年6月から、NHK交響楽団の指揮者になることがすでに決まっていた。

1962年1月、小澤征爾と江戸京子のふたりは作家の井上靖が媒酌人をつとめ、首相である池田勇人も出席する盛大な結婚式をあげた。このとき、小澤は日本へ戻るつもりをしていた。結婚で、週給が150ドルに上がった。

「N響事件」

27歳の小澤征爾は、バーンスタインの副指揮者をやめ、1962年6月にNHK交響楽団の指揮者になった。このとき「N響事件」がおこった。

ミンシュに始まり、バーンスタインとカラヤンに認められ、指揮者としての出世街道を驀進してきた小澤はまず世界で認められた。NHK交響楽団の団員たちの多くは、国立の東京芸術大学の出身者が多く、彼の出身校の私学の桐朋学園は設立されたばかりで、彼を見下す風潮があった。若い彼を見る日本の演奏家のうちには、(ねた)みや嫉妬がかくれていた。

NHK交響楽団の常任指揮者でないとはいえ、このとき常任指揮者の席は空席だった。彼は、東京で指揮するだけでなく、夏は北海道、香港、シンガポール、クアラルンプール、マニラ、沖縄でも公演した。この間に、メシアン[9]の全部で10楽章もあり長く難しく、ジャンルを超えた現代曲の大曲である「トゥーランガリラ交響曲」[10]を日本初演するなど意欲的に取り組んだ。練習には、メシアン自身も立ち合いみっちり練習し、初演は成功した。ところが、この海外公演のあたりから、団員たちとの関係がぎくしゃくしてきた。

小澤は、「N饗で僕が、メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』を初演指揮した。それ以来、おかげで、おれは苦労している。(笑)」[11]」とのちに語った。

小澤は、自著に「おわらない音楽」に、団員がボイコットした経緯を書いている。フィリピンでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏したときに、ピアニストがカデンツァ[12]を弾いている途中でうっかり指揮棒をあげてしまうミスをした。終演後に、年配の団員から「おまえやめてくれよ。みっともないから。」とクソミソに言われた。小澤は、「申し訳ありません。」と平謝りするしかなかった。さらに「ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。」と書いた。

ニューヨーク・フィルハーモニーの上層部が来日したとき、音楽会の前日に赤坂のナイトクラブに呼ばれた。小澤は誘いを断れずにそこへ行き、朝の6時半まで飲んで、翌日の練習に遅刻した。

こうした小澤への嫉妬に加え、遅刻したとかのささいなミスが重なり、さらに11月の定期公演が失敗したときに、団員たちが「今後一切小澤の指揮する演奏には協力しない」とボイコットを表明した。彼らは、小澤がいかに無礼か、音楽の伝統を知らないかとマスコミに吹聴した。マスコミは、「海外で賞を取り、チヤホヤされて増長した困った若者」という論調で小澤を揶揄した。

NHK交響楽団側が「協力しない」という内容証明を送ったことに対し、小澤は契約不履行と名誉棄損の訴訟を起こした。事態は泥沼化の様相を呈しはじめた。

日本では若いという理由で、海外で評価された若者を正当に評価しない風潮に対し、危機感をいだいた同世代の演出家、浅利慶太と作家、石原慎太郎がたちあがった。

小澤は、楽団員がすわる椅子と譜面台が並んだだれもいないステージの指揮台で、楽団員を待っていた。その姿を、浅利と石原から連絡を受けた報道陣が写真を撮り、「天才は一人ぼっち」、「指揮台にポツン」などの見出しで報じた。これが功を奏して、世論は 《若き天才》 VS 《権威主義で意地のわるい狭量な楽団員》 の構図へいっきにかわった。

この事件は、他の若い文化人にとっても他人事ではなかった。いつまでも居座わりつづけ、力をにぎる権力者たちとの世代間闘争になった。三島由紀夫、谷川俊太郎、大江健三郎、團伊玖磨、黛敏郎、武満徹など、日本を代表する錚々たる作家や詩人、作曲家がくわわった。最終的に、吉田秀和、黛敏郎らの仲介で、小澤はNHK交響楽団と和解したが、その内容は訴訟を取り下げるだけのもので、NHK交響楽団に復帰するものではなかった。

小澤征爾は頭を下げるつもりも、もう日本へ戻るつもりもなかった。この事件を契機に日本で指揮をする気が失せてしまった。

小澤征爾は、1984年に武満徹と対談した「音楽」で、楽団員と対比しながら指揮のことを語っている。[13]

小澤  「シャルル・ミンシュは天才だね。オーケストラを雰囲気で弾かしちゃうんだよ。酔っぱらっているような足どりで出ていってね、サーっと振る。その瞬間にもう完全に彼がオーケストラの主役なわけ。これは実は大変なことだよ。楽員の海千山千が百人ですからね。海千山千と言っちゃ悪いけど、ほんとうにそうなんだから。オーケストラの人は、生涯それでめしを食っているんだから。・・・・僕などは、ああやってもだめ、こうやってもだめ、いくら細かく振っても音や志が伝わらない時がある。(笑)ミンシュの技は、神技か天才だね。・・・・だけど斎藤先生[14]は、どちらかというと天才型じゃない、努力型なんですよ。僕は斎藤先生の伝統を完全に受け継いでいるから、きょうだって、半日声からして、弟子を教えているわけだね。・・・・僕の教え方は、結局斎藤先生から教わったとおりなのね。斎藤先生の方法は、底辺の、オーケストラで、だめなオーケストラを指揮する時のメソードなわけだよ。」

・・・・

武満  「指揮者というよりもトレーナーだね。」

小澤  「そうするとね、この方法はいいオーケストラでは、時には、むしろむだなのよ。だけど僕はおかげさまで、いろんなオーケストラを経験しているから、その区別だけはつくようになってきた。」

武満  「いつごろから。」

小澤 「5,6年前かな。そうするとね、― いいオーケストラ今度日本に来る前にベルリンに行ってたんだけれども― ベルリン・フィルの最初の練習では、斎藤方式をちょっと使うんだけれど、あとは音楽だけで指揮をする。音が合わないと、向こうが悪いという顔をしている。すると、音が自然と合ってくる。これは少しミンシュ的なわけだけど。斎藤方式考え方は、合わなかったら自分の指揮が悪いわけだ。この違いが5,6年前からようやく分かるようになってきたんだけど、その差はとても危険だけど大きいよ。オーケストラの呼吸を見抜き、その瀬戸際を歩く。」

武満 「名人の域に達したわけだ。すなわち、名人は(あや)うきにあそぶ。」

小澤 「いや、名人の域じゃない。瀬戸際に達しただけだ。ただこの違いは年期がたたないとわからない。20年前だったらその瀬戸際から落ちてそのまま死んでしまうわけだ。N饗みたいにボイコットされて、はい「さようなら」というわけだ。自分のオーケストラの場合は、おっこちてもまた戻れるけど、人のオーケストラの場合は、おっこちない方がよいから、落ちないようにしている。・・・・ベルリン・フィルでかれこれ17,8年になるから、・・・それだけ長くつき合っていると、もうおっこちたっていいわけよ。・・・・かえってうまく鳴るんだ。日本では新日フィル。アメリカじゃ、もちろんボストン・シンフォニーね。1年に何回もおっこちている。でもみんな、『あ、セイジ、またおっこった。』と見てるけど、なんとかはい上がって出来るわけ。やはり指揮という商売は傍目にみたほど楽じゃないよ。海千山千を相手に、他流試合みたいな、生きるか死ぬかを年中やっているんだから。」

・・・・

武満 「ただ、あなたが昔から変わらないのは、ほんとうに音楽に没入することだね。

・・・・

小澤 「あなたは没入というけれども、音楽は集中しかないということを(僕が丁稚をしていた斎藤先生は)しょっちゅう言っていたものね。それは音楽だけじゃないんだって。パーフォーマンサーというのは芝居とかバレエとかスポーツとかは全部ですって。ある決定的瞬間に集中できない奴はだめだというんです。・・・・カラヤン先生は内的で、『セイジ! 振りすぎる。棒なんかどうでもいい、流れがあればいい。精神が終わりまで持続すればいい。じーいっと立っていればいい』、そういう禅問答みたいなことを半年間ぐらいやられたいんだよ。・・・・そして演奏を盛り上がらせるには、演奏家の立場よりも聴衆の心理状態になれ、理性的に少しずつ盛り上げてゆき、最後の土壇場に来たら、全精神と肉体をぶっつけろ!そうすれば客もオーケストラも自分自身も満足する、ということを教えられた。・・・・ミンシュ先生からは、練習では何も注意されなかったけど、『スーブル、スーブル、力を抜け、頭の力も体の力も手の力も全部抜け!』と言われたのを覚えている。シャルル・ミンシュの指揮はファンタスティックな天才的な神技で、カラヤンの指揮棒は観客をあっという間に引きつける魔法の杖だった。だから僕は本当に幸運だった。」

—————-

彼は、NHK交響楽団と分かれた後、まえとおなじように、世界を飛びまわりつづけた。のちに、交響楽だけではなくオペラの分野にまで成功を広げた。もしこのとき楽団に頭を下げていたら、彼の成功はなかっただろう。しかし、このトラブルの後アメリカに戻った小澤は、時間が過ぎるばかりで仕事がなかった。

1963年6月、代役で出たラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団とのはじめての共演が大成功し、小澤は、翌年のラヴィニア音楽祭の音楽監督の地位を獲得した。この時に、小澤は武満徹の「弦楽のためのレクイエム」を演奏した。この曲は、ストラヴィンスキーが激賞した曲だった。

小澤は、武満徹の曲を積極的に取り上げ、レパートリーの柱にした。武満は、琵琶と尺八をオーケストラのソリストにした代表作「ノヴェンバー・ステップス」などの名作を発表し、相乗効果があった。

小澤征爾、武満徹、バーンスタイン 日経新聞から

10月に、東京・日比谷に日生劇場が開場し、(こけら)落としにベルリン・ドイツ・オペラ[15]の引っ越し公演でカール・ベーム[16]とロリン・マゼール[17]が指揮をしてオペラを上演した。小澤も呼ばれて、武満の「弦楽のためのレクイエム」、ビゼーの交響曲、ブラームスの交響曲第2番を指揮した。

このあとも小澤は、日本へNHK交響楽団以外の仕事で日本に帰ってくるが、拠点を北米大陸においた。

1964年1月、29歳の小澤征爾はトロント交響楽団と、やはり武満徹の「弦楽のためのレクイエム」をいれたプログラムでカナダ・デビューをした。その演奏はカーテンコールが15分間もつづき、伝説の大成功[18]になった。グールドは、この武満の初期の代表作をストラヴィンスキーが激賞した[19][20]ことを知っていたから、映画「砂の女」を見たときに、武満が音楽を担当しているとすぐにわかった。

このときの成功は、華々しいものだった。モントリオール交響楽団に24歳のインド人、ズービン・メータがなり、積極的な展開で楽団が活性化していたことが背景にあり、チェコ人のワルター・ジュスキント[21]が9年間務めていたトロント交響楽団の常任指揮者は、1965年9月のシーズンから、小澤征爾が後任になることがきまった。

その交代を実現させたのは、グールドのマネージャー、ウォルター・ホンバーガーだった。1962年に、ホンバーガーはトロント交響楽団の専務理事になっていた。観客動員数を増やそうとしていた彼は、ラヴィニア音楽祭で指揮する小澤征爾を聴き、実力をよく知っていたから、小澤征爾のマネージャーのウィルフォード[22]にトロント交響楽団への就任を打診していた。

Toronto Star 5/8/1987

小澤征爾が、師匠のバーンスタインにトロント交響楽団の常任指揮者に就任すると最初に説明したとき、当時はこの楽団はさほど有名でなかった。このため、バーンスタインは、「セイジはニューヨークにいて、良いオーケストラだけを指揮するべきだ。」と難色をしめした。しかし、小澤は「いや、今の僕にはレパートリーを作ることが必要なんだ。」と必死になって説得した。

小澤征爾はが、トロントについてしばらくたったとき、父母をトロントへ招待した。すると父親が、「ベトナム戦争をやめさせねばならん。二度と東洋人同士を戦わせてはいかん。アメリカにも行って、一番話がつうじそうなロバート・ケネディに俺の意見を伝えたい。」と言い出した。ロバート・ケネディは、元アメリカ大統領、故ジョン・F・ケネディの弟で上院議員だった。

(ロバート・ケネディ Wikipediaから)

結局、小澤征爾の友人で演出家の浅利慶太が、自民党の衆議院議員、中曽根康弘[23]を紹介してくれた。中曽根康弘がロバート・ケネディへ渡す紹介状を書き、ワシントンでの面会が実現した。小澤の父の主張は、「日中戦争の経緯に照らしても、民衆を敵にしてしまったこの戦争は勝てない。アメリカは武力で勝とうとするのではなくて、発電や土木の技術とか、文明の面で優れているところを共産主義国に見せるべきだ」というものだった。ロバート・ケネディは、予定時間をオーバーしても面会を切り上げようとせず、手応えに父親は喜んだ。

江戸京子との離婚 「おわらない音楽」と「週刊新潮」

小澤征爾は、トロントで精力的に武満徹の曲を取り上げ、その演奏は高い評価を得た一方で、カナダでの江戸京子との私生活は、すぐにうまく行かなくなった。

小澤征爾は自著「おわらない音楽 私の履歴書[24]」で次のように書いている。

「トロントでの仕事はまずまずだったが、私生活は立ちゆかなくなっていた。結婚した江戸京子ちゃんはピアニスト。どちらかが音楽の勉強をしている時、もう一方は、勉強に集中できない。『音楽家同士の結婚は難しい』と誰かに言われたことがあった。確かにそのとおりだった。海外にいるときはいつも別居。結婚当初からうまくいかなかった。」

「最後にうちのおやじと京子ちゃんのおやじの江戸英雄さん、仲人の井上靖さんの話し合いになった。そこに僕が呼び出されて、最終的に離婚が決まる。・・・・後に僕が再婚し、娘の(せい)()が生まれた時は、・・・・京子ちゃんも「赤ちゃんに会いたい」と言う。会わせると、同じように祝福してくれた。それから僕たちは友人に戻り、今も良い関係が続いている。」

週刊新潮(1979/4/26)
「小澤征爾」に懲りた江戸京子さんが14年目に再婚の相手」

小澤征爾の自著「おわらない音楽 私の履歴書」にたいし、江戸京子が小澤と離婚した経緯を、1979年に雑誌週刊新潮が「小澤征爾に懲りた江戸京さんが14年目に再婚の相手」というタイトルで報じている。

「コンセルバトワールを出て、小澤氏と結婚したとき、小澤氏は頭角を現しつつある若い指揮者であり、江戸さんはソリストとして世に出たいと思っていた。が・・・『ピアニストとして練習するにしても、自分が弾きたい時に弾けませんしね。主人が練習に疲れて家に帰ってきて、もう音は聞きたくないという。その気持ちもわかりますしね。それで議論になると、結局は、“オレが稼いでいるんだから、オレの意見を尊重しろ”ということで押し切られてしまう。・・・自分が生活力を持てば納得のいく生活ができるんじゃないかと。』」と江戸京子はインタビューに語った。

記事は、「父親の予想どおりだった離婚」という見出しで続く。

「父親の江戸英雄氏は、娘と小澤氏との結婚の行く末を初めから危ぶんでいた。結婚式の当日、“花嫁の父”は、『二人の結婚に反対だったし、今も懸念している』という意味の異例の挨拶をしたほどである。」

「間もなく、桐朋短大を出た小澤氏がパリへやってくる。『パリで二人きりで会ったら結婚に発展するんではないかと心配して、父は征爾に、私に会うなといったんです。父は音楽家が嫌いでした。芸術家というのは自由に自分の生きたいように生きるから、すぐに他の人が好きになったりするんじゃないかと考えたんです。』」

小澤征爾が、パリへ出航するさい、同級生の父親である、サンケイ新聞社長の水野茂夫氏が出した50万円のうち20万円が江戸英雄が出したのではないかと記事は書き、パリで娘の京子に会わないようにさせるのが趣旨だったと書いた。

それでも二人は結婚するのだが、「案じられたとおり、銀座のバーのマダムやら、ファッションモデルの入江美樹(小澤氏は江戸さんと離婚後、彼女と再婚)との仲がウワサされるようになり、結局、二人は離婚に至った。」

4年間の結婚生活の末、二人は1966年に離婚した。小澤征爾は、1968年までトロント交響楽団の常任指揮者だったから、グールドは小澤のプライベートの経緯をよく知っていた。グールドは、自分の女性関係を徹底的に秘匿し、彼は、プライベートを守ることは芸術家にとって許容されるべきだと考えていた。しかし、彼は他人のゴシップを知り、あれこれ詮索するのは好きだった。

小澤征爾のグールドの回想とグールドの“小澤征爾の身びいき記録”

小澤征爾は、1967年のグールドを「終わらない音楽」にこう書いている。

「ハンバーガー[25]がマネージャーを務めていたピアニスト、グレン・グールドとも親しくなり、共演の話が持ち上がった。放送局で演奏し、録音もする計画だ。何度も打ち合わせして、当時としては画期的なプログラムができあがった。現代曲や、バッハのチェンバロ曲をピアノで弾くのとか。なのに直前になってグレンが「嫌だ」と言って立ち消えに。そのくせ、平気な顔で僕と酒を飲んでいる。変わっていたが、面白い男だった。共演が実現していればどうなっていただろう。残念な話だ。」

—————-

一方、グールドは、小澤征爾がトロント交響楽団の常任指揮者に就任してからしてから二度、江戸京子をピアノのソリストとして迎えたことを、《身びいきということでは文句なしの地元記録を作ったようだ》と、グールドは、1965年8月、「時と時を刻むものたち」[26]と題する評論をミュージカル・アメリカ[27]に書いている。

「西欧音楽のどちらかといえば遅れた慣習の一つは、指揮者に「常任」「終身」「客演」指揮者の3通りがあることだ。「終身」指揮者は、ベルリン・フィルなどに例があるが常駐しているわけではなく、終身指揮者をおくと、独裁体制をもたらし役員会、婦人会、記者たちは、数シーズンしか従いきれない。常任指揮者が広範なレパートリーを持っていれば、高額出演料をとる客演指揮者を招かなくともすみ、常任指揮者のサラリーがでる。家族の落ち着き先を決めたり、中二階付きの新築の家に室内プールを足したりしなくてはならない彼としては、ロシア語しか話さない80過ぎの、ビザに問題のある客演指揮者以外は、うかうかとしていられない。そこで常任指揮者はほかのどんな演奏家も要求されないほど大きなレパートリーの重荷を背負いこむ。オイストラフ[28]にシェーンベルクの作品36に取り組むように求めないし、シュナーベル[29]に気分を害してまでバッハを弾いてほしいと思わないのと同じだ。しかし、常任指揮者となるとこれが要求される。」

「うそではない。ほとんどの常任指揮は、たいていの2回目のシーズンまで、定期会員にまじって臨時の聴衆が新米の指揮者の試練を見学に来る。しかし、3シーズン目ごろになると、常任指揮者は自分がもはや切符売場で責任を果たしていないことをかならず思い知らされ、客演指揮の巨匠たちとの契約をただちに増やすよう助言せざるをえなくなる。そうした巨匠たちの途方もない指揮料は、当の常任指揮者の体制に最初の財政危機をもたらす一因となる。」

このあとグールドは、モントリオール交響楽団へあたらしく就任した24歳のズービン・メータを迎え、活発な仕事をしたと書き、そのメータが提供した音楽は、

「流れるような、ヴァインガルトナー風[30]の緩徐楽章がひじょうに好調な、ベートーヴェンの「第九」があり、適度にエゴイスティックな《英雄の生涯[31]》(全体にひじょうに高貴な性格をだしている)があった。他方、国産あるいは輸入の前衛音楽に冒険をすることもあった。このような積極的展開、前進が注目されない訳はない。・・・というわけで、トロント交響楽団の進取に気に満ちた幹部会は、ジョンソン大統領[32]が好んで「迅速かつ適切な対応」と呼んだとおりのすばやい反応をしめし、9年間務めた指揮者ワルター・ジュスキントの辞表を受理した。ジュスキントの9年間は、感受性に富むと同時に学究的な音楽的外貌、百科全書風の広いレパートリー、地元紙の吠えたてる若手記者たちにとことん試されたににもかかわらず、底をつくことのなかった機嫌のよい人柄によって知られていた。」

このあとに、非難ともとれる小澤征爾の評をグールドは、――

「1週間たたぬうちに、その後任にレナード・バーンスタインの副指揮者で『極東問題専門家』の小澤征爾があたることが発表された。 小澤氏について判断を下すのは、たぶんいささか時期尚早であろう。ただ、あちこちで客演指揮をしている実績からすると、指揮戦略を確実に手中にし、プログラム編成にも相当にアカデミックな頭脳を働かせているように見える。そして、身びいきということでは文句なしの記録をつくったようだ。(かれは第1回、第3回のピアノ・ソリストとして、自分の妻と契約するようはからった。エミール・ギレリスに次ぐ、ホッケー流に言えば、第2のスターというわけだ。)

括弧書きの部分にある《エミール・ギレリスに次ぐ、ホッケー流に言えば、第2のスター》とは、何をいっているのかとは、――

《エミール・ギレリス[33]に次ぐ》という部分の意味はこうだろう。

グールドは、西側のピアニストとして初めて共産圏で演奏し、“雪解け”を両陣営に実感させたのは、1957年だった。ところが、1958年の第1回チャイコフスキー国際音楽コンクールで優勝したのは、グールドの友人のヴァン・クライバーン[34]で、演奏終了後、鳴りやまない大喝采、スタンディングオベーションが長い時間続いた。その審査員長を務めていたのがギレリスだった。このコンクールの開催には、スプートニク1号の打ち上げに成功したソ連がその国力を世界へ知らせる意図があった。まったく冷戦の共産圏で開催されたピアノ・コンクールで、西側のクライバーンが優勝し”雪解け“を実現したとアメリカ国民は大喝采をし、帰国したときにはニューヨークで紙吹雪が舞う凱旋パレードが起こった。ヴァン・クライバーンの優勝には、ギレリスの政治的意図があることが明白だった。ギレリスだけでなく、ピアニストで審査員のスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点をつけた。グールドは、クライバーンの受賞は政治決着であり、コンクールの無意味さを苦々しく思っていた。

また、《ホッケー流に言えば、第2のスター》という部分は、グールドは、北米アメリカにおいてさかんなホッケー・リーグ(NHL=National Hockey Leagueを念頭に例をあげ、ホッケーの試合では、選手の活躍に応じ、ファースト・スター、セカンド・スター、サード・スター、週間スター、月間スターなどと選手を称えることを引き合いにだした。

グールドの文章はわかりにくい。しかし、あらためて要約すると、―― 小澤自身の評価を下すには時期尚早だが、ギレリスがヴァン・クライバーンをチャイコフスキー・コンクールで優勝させたように、小澤征爾が指揮者の立場を利用して、江戸京子をソリストに迎え、セカンド・スターの地位を与える身びいきの文句なしの記録を作った―― と書いていた。

このグールドの評論は、しばらく続き、グールドは過激で意味不明なことを言っていた。というのは、残る部分では、実在の人物としてジョージ・セルの名前だけがでてくるが、どこまで本気なのか、実在しない架空の指揮者やオーケストラを、あたかも存在するようにでっちあげながら書いている。その結論部分では、曲づくりが《民主的にプログラムされた》有線式電子機器によって指揮と演奏が分離されるだろうと、大いなる皮肉とも予言とも判断しがたい文章で締めくくっている。最後の一文は、「わたし自身で@%C書いた$$$以外は$!!!」と書き、ユーモアのつもりだろうが、意味不明でだった。

小澤征爾のヴェラとの再婚、映画「他人の顔」

小澤征爾は、1965年にトロント交響楽団の常任指揮者となり、トロントに拠点を得てからも、年に1度は日本へ帰って日本フィルハーモニーや読売交響楽団を指揮していた。1966年、小澤は江戸京子と離婚し、1968年、「バツイチ」の小澤は9歳年下のモデル、入江美樹(小澤・ヴェラ・イリーン)と「美女と野獣婚」[35]といわれる再婚をした。

入江美樹は、白系ロシア人貴族のクォーターで、人気テレビ番組の「シャボン玉ホリデー」のマスコットガールやNHKの紅白歌合戦の審査員役などをして人気があった。1966年には、阿部公房の「他人の顔」が、勅使河原宏監督による映画が「砂の女」に次いで製作され、顔にケロイドがある女の役で出演した。入江美樹は、「世界で一番美しいモデル」が、顔にケロイドがある役で映画出演すると大きな話題になった。

映画、「他人の顔」に出演した入江美樹(イリン・ヴェラ)

小澤と入江美樹がはじめて会ったのは、入江の実家のクリスマス・パーティーだった。そこには、彼女のモデル仲間や人気俳優の岡田真澄、映画監督の勅使河原宏ら錚々たる面々の美男美女が集まっていた。気おくれしたという小澤が、二階で酒を飲んでいると、美樹の父がやって来て、二人は意気投合したという。小澤は、いつも同性で目上の力のあるものに好かれる才能を発揮した。

小澤は、美樹に日本フィルのコンサートのチケットを渡し、彼女が実際にコンサートへやってきて、ときどき会うようになった。結婚するきっかけは、パリへ行った美樹が結核で突然喀血し、知らせを知人から聞いた小沢がトロントからすぐに駆け付けた。そこで、彼は一晩だけ看病をしてトロントへ引き返したというエピソードを披露していた。

映画「他人の顔」は1967年にニューヨークでも公開された。映画音楽に使われた音楽は、やはり武満徹が作曲し、知的で印象深い前衛の現代音楽が全編にながれた。阿部公房は、ノーベル文学賞の候補に毎年あがるほどの人気があり、グールドは映画をみただけではなく、すぐに英訳された原作もすぐに読んだ。

「他人の顔」(1966)の一場面https://eiga.com/news/20190831/5/から

小澤征爾は、1969年、トロント交響楽団の常任指揮者を辞任、その後は、ボストン交響楽団、サイトウ・キネン・オーケストラ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督などで活躍をつづけたが、彼のゴシップはその後もつづいた[36]

おしまい


[1] 「終わらない音楽 私の履歴書」日経新聞社から

[2] コンセルバトワール 音楽・演劇などの専門学校。特に、フランスのパリ国立高等音楽院をさす。

[3] シャルル・ミンシュ (1891 – 1968)ドイツ帝国領であったアルザス地方ストラスブールに生まれ、のちフランスに帰化した指揮者。

[4] タングルウッド音楽祭 バークシャー音楽祭の名前がタングルウッド音楽祭に名前が変わった。教育音楽祭である。

[5] ハロルド・ショーンバーグがグールドを酷評 《神秘の探訪P.226》ショーンバーグは、ブラームスピアノ協奏曲第1番の演奏を<タイムズ>紙に「グレン・グールドの心」と題してピアニストAからピアニストBへの手紙という形で、早く弾けない、重すぎ、内にこもりすぎ、壮麗さや力や活力に欠けると非難した。バザーナは、聴衆は受け入れているのにも拘わらず、批評家の反応が、コンサート引退の直接的な原因と考えている。

[6] アーロン・コープランド 

[7] 100ドル 100ドル✕4週✕360円/17,000円=8.5

[8] ミトロプーロス (1896 – 1960)主にアメリカ合衆国で活躍したギリシャ人の指揮者・ピアニスト・作曲家。ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団に1949年に常任指揮者。1951年から同管弦楽団の首席指揮者に就任し、1957年にレナード・バーンスタインに後を譲った。この間、1954年からはメトロポリタン歌劇場の常任指揮者としても活動した。

[9] メシアン シャルル・メシアンOlivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen, 1908-1992フランス、アヴィニョン生。現代音楽の作曲家、オルガン奏者、ピアニスト

[10] トゥーランガリラ交響曲 https://www.youtube.com/watch?v=AGbAYS1Jwgg(第5楽章)

[11] 「音楽 武満徹、小澤征爾」新潮社

[12] カデンツァ 独奏者がオーケストラを背景に独奏を披露する聴かせどころ。

[13] 「音楽」(小澤征爾、武満徹 新潮文庫)

[14] 斎藤先生 小澤征爾の恩師。

[15] ベルリン・ドイツ・オペラ ベルリン・ドイツ・オペラはベルリンにある歌劇場。1961年に再びベルリン・ドイツ・オペラとなる。歴代の音楽総監督のひとりにロリン・マゼールがいる。1963年にカール・ベームとマゼールを指揮者として初来日。日本への欧米歌劇場引っ越し公演としては初めてであり、ベーム指揮の「フィガロの結婚」「フィデリオ」のライブ録音が残っている。

[16] カール・ベーム

[17] ロリン・マゼール

[18] 伝説の大成功 

[19] ストラヴィンスキー 「音楽 小澤征爾・武満徹」年表から。「弦楽のためのレクイエム」は、1957年、武満が27歳のときに作曲された。

[20] ストラヴィンスキー 《神秘の探訪 ケヴィン・バザーナ》ストラヴィンスキーは、グールドの大ファンで、1960年テレビで共演した際、音楽的才能に驚愕したことを公言して憚らなかった。翌年、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品110第31番をロサンゼルスで聴き「その晩、初めてベートーヴェンの後期ソナタが理解できた」との手紙を送った。ストラヴィンスキーは、1962-1967年のあいだに何度もトロントを訪れ、自作のピアノとオーケストラのためのカプリッチョをグールドと共演したがっていた。ジョン・ロバーツは、二人を昼食の席で会わせた。しかし、ストラヴィンスキーの音楽を好まぬグールド(たとえ作曲家本人の前でも態度は変わらず)〈カプリッチョ〉の話が出ると巧みに話題を変え、デザートが出る前に辞去してしまった。のちに、グールドは楽譜を見ることさえ拒否した。一方のストラヴィンスキーは、奇妙なことにグールドのことを自分が出会ったなかで最もハンサムな人のひとりだったとロバーツに語っている。

[21] ワルター・ジュスキント (1913 – 1980)は、チェコの指揮者。1956年から1965年まではトロント交響楽団の首席指揮者。1968年からはセントルイス交響楽団の音楽監督に就任し、1975年まで務めた。

[22]ウィルフォード Ronald A. Wilford「クラシック音楽の最大のパワーブローカー」と評されているアメリカの音楽マネージャー。 」。彼はコロムビアアーティストマネジメントで50年間過ごし、クライアントには指揮者ジェームズレヴァイン、小澤征爾、リッカルドムーティが含まれていた。Wikipedia

[23] 中曾根康弘 1960年まで科学技術庁長官をしていたが、この時は無任所で、1982年の総理大臣になる。

[24] 「終わらない音楽 私の履歴書」小澤征爾 日本経済新聞出版社

[25] ハンバーガー グールドのマネージャーのWalter Hombergerのこと。小澤征爾は、ホンバーガーと表記せずに、ハンバーガーと書いている。

[26] 「時と時を刻むものたち」 「グレン・グールド パフォーマンスとメディア 著作集2」(ティム・ペイジ編 野水瑞穂訳 みすず書房)P243

[27] ミュージカル・アメリカ クラシック音楽に関するアメリカ最古の雑誌で、1898 年に初めて印刷版が発行された。Wikipedia(英語)

[28] オイストラフ David Fiodorovich Oistrakh/Eustrach、1908 – 1974ロシア帝国のオデッサ(現:ウクライナ)出身のユダヤ系ヴァイオリニスト、指揮者。チャイコフスキーやブラームスといった情感豊かな楽曲を得意とする

[29] シュナーベル アルトゥル・シュナーベルArtur Schnabel, 1882 – 1951スイス・アクセンシュタイン Axenstein)生まれ。オーストリア→アメリカのユダヤ系ピアノ奏者、作曲家。シュナーベルのレパートリーは狭く、ベートーヴェン以外ではモーツァルトやシューベルト、ブラームスなどをレパートリーとしていた。

[30] ヴァインガルトナー 1863〜1942オーストリアの指揮者・作曲家。リストに師事。ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者などを歴任。

[31] 『英雄の生涯』(えいゆうのしょうがい、Ein Heldenleben)作品40は、リヒャルト・シュトラウスが作曲した交響詩。『ドン・ファン』から始まるリヒャルト・シュトラウスの交響詩の最後の作品である。

[32] ジョンソン大統領 アメリカ合衆国第36代大統領。民主党。1963年、ケネディ暗殺に伴い副大統領から昇格し、翌年北爆を開始してベトナム戦争を本格化させた。内政では「偉大な社会」を提唱し、公民権法を実現した。

[33] エミール・ギレリス ウクライナ・オデッサ出身、ユダヤ系。1958年にチャイコフスキー国際音楽コンクールピアノ部門の審査員長も務めていた。他の審査員の中にはリヒテルの名も。この時の優勝者がヴァン・クライバーンである。クライバーンはアメリカ人にも関わらず、思いっきりソ連ホームの国際コンクールで優勝したことにより、米国では英雄視された。審査員達も「アメリカ人に優勝させて良いのか?」とかのフルシチョフにわざわざ確認をとったのだとか。そして、フルシチョフは「彼が一番なら良いじゃないか。」と答えたとのこと。そんな訳でアメリカでは一躍時の人となった。ギレリスはロシア音楽界の重鎮として、チャイコフスキー・コンクールの審査員長を長きに渡って務めた。

[34] ヴァン・クライバーン 1934 – 2013アメリカのピアニスト。1958年、23歳で第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。このコンクールは1957年10月のスプートニク1号打ち上げによる科学技術での勝利に続く芸術面でのソビエトの優越性を誇るために企画された。クライバーンのチャイコフスキー協奏曲第1番とラフマニノフ協奏曲第3番の演奏後はスタンディングオベーションが8分間も続いた。審査員一同は審査終了後、ニキータ・フルシチョフに向かって、アメリカ人に優勝させてもよいか、慎重に聞いた。フルシチョフは「彼が一番なのか?」と確認、「それならば賞を与えよ」と答えた。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍アメリカの国民的英雄となる。このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点をつけた。(付け加えると、クライバーンは、受賞後ツアーで消耗し、ピアノを満足に弾けなくなる。)

[35] https://audio.kaitori8.com/topics/seijiozawa-story/

[36] ゴシップ 2022年7月、雑誌女性セブンに、記事「小澤征爾30億円資産巡る長女と長男引き裂かれたファミリーツリー」に、「約20年前近く前、小澤の浮気をめぐり夫婦喧嘩になり財産の大部分をヴェラに渡すと約束して許しを得た」と書かれている。

『アイスランドのグレン・グールド』 ヴィキングル・オラフソン「ゴルトベルク変奏曲」リサイタル

(2023/12/6 一部修正しました。)

2023年12月3日、サントリーホールでヴィキングル・オラフソンのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ってきました。ネットで調べると、オラフソンは、1984年アイスランド生まれで、2008年にジュリアード音楽院を卒業しているそうです。

なかなか良いリサイタルでしたが、親爺は、グールドおたく、グールド推しなので、グールドファンでない人には申し訳ない内容になるとおもいます。天才と比べてどうするんだ、という批判はあるでしょうが感じたことを忖度なしに書いてみたいと思います。

やはり一番は、何と言っても演奏時間がとても長い、長すぎる点です。グールドはゴルトベルグ変奏曲をデビュー時と、亡くなる直前の2回録音をしています。ビートを効かし、みずみずしい演奏をした1回目が38分で、観念的で沈思するように弾いた2回目が51分でした。これに対して、オラフソンは(CDによると)反復を楽譜どおりにして74分かかって弾いていました。1 演奏会場のロビーには、「演奏時間約80分。途中休憩なし。」と掲示されていました。これだけ差があるのは、グールドは、1回目の録音では全曲で反復をしていませんし、2回目の録音では30曲ある変奏曲中の13曲の前半だけを反復しているにすぎないからです。このため、グールドの演奏を聴き慣れた耳には、「何度もリピートしないで!次へ行って。」と思います。

このオラフソンは、29変奏と30変奏『クオドリベット2』のところで盛大なクライマックスを持ってきて、フォルテッシモでガンガン弾き、32番めの(最後の)アリアをソフトペダルで音量をぐっと抑え、静謐で穏やかな印象でこの曲を閉じました。このために、観客に極めて大きな感動を与えることに成功したと思います。

親爺が思うに、このゴルトベルク変奏曲は、終曲のアリアの一つ前の『クオドリベット』が、それまでの格式ばった印象を解き放ち、俗謡「キャベツとかぶ」のメロディーによって気安く楽しい雰囲気へと一気に変わります。そして、最後のアリアで再び、天国のような美しい歌声で終わりました。オルフソン、なかなか良かったです。「終わりよければ全てよし」と満員の観客から感動の大喝采を浴びていました。

ここで、他の演奏家の演奏時間もざっと調べてみましょう。ファジル・サイは79分、ラン・ランは90分、バレンボイムも90分、アンジェラ・ヒューイットの1999年録音は、79分、2015年の録音は82分、親爺が好きなシュ・シャオ-メイは85分、辰巳美納子(チェンバロ)は80分、グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)は、79分、カール・リヒター(チェンバロ)は、79分です。親爺が知るなかで唯一、高橋悠治(1938年 -)は、1976年に37分で演奏しています。つまり、高橋悠治を除くピアニストは、楽譜どおりにせっせと反復をしていると思います。高橋悠治の演奏もいいですね。

こうしてみると、グールドはあらゆる演奏において、パイオニアであり、かつ変人だったのは間違いがないとして、繰り返しをしていないピアニスト(兼作曲家)に高橋悠治がいるわけですが、この人はグールドと6歳違いのほぼ同世代で、小澤征爾、武満徹、トロント交響楽団と一緒に活動していた時期があり、おそらく、グールドとも会っていただろうと思います。

グールドは、「コンサートは死んだ」といい、演奏会の価値を否定しましたが、実際に会場で聴く生の音の心地よさを、自宅で再現することはなかなかできないと思います。アコースティックな電気をとおさない響きは、何にも代えがたいと思います。

コンサートの開場の前の、群衆としての観客の多さを見て、グランドピアノというのは、1台でこの2000人以上の観客に音を届けられるんだと感心するだけでなく、ピアニストが、この人たち全員に音が届くように弾くのは、ある種、目の前で弾くのとは違った技術を要求されるだろうと感じました。

開場を待つ観客が集まったところ。こんなにたくさんの人にピアノの音が届くんですね。

オラフソンは、すべてを暗譜で弾いていました。そのため変奏の切れ目で、一音をずっーと伸ばしたまま響かせ、次の変奏へ自然にうつる工夫をしていました。おかげで、楽譜のページをくるインターバルの違和感がなくなったと思います。

どのピアニストもグールドのように弾けないんだなと思うのは、グールドは、どれだけ弱く小さい旋律を弾いていても、一つ一つの音が、はっきり主張しています。早く弾いてもそうです。一音一音が粒のように分離しています。ところが、他のピアニストはスケール(音階)などを速く弾くと、ダラダラっと塊になってしまって、聞き分けられません。

グールドは、デタシェ、ノンレガート、スタッカートとレガートを弾き分けます。デタシェは、ノンレガートと同じで、音を切ることをいいます。スタッカートはもっと速く切ります。

グールドの演奏の基本はノンレガートにあります。ノンレガートには、緊張を和らげる効果やユーモラスな効果があります。レガートは美しく感動を呼びますが、それだけでは、どうしても平板になりがちですし、聞き手の緊張はいつまでも続かないので飽きてきます。グールドは、このノンレガートとレガートをバランスよく弾け分けます。しかも、ソプラノ、アルト、バリトン、バスの声部をレガートとノンレガートを交代させながら弾きます。 しかし、ノンレガートを使って、ずっと弾けるピアニストは、音の粒を揃えるのが難しいために、なかなかいないようです。

オラフソンは、ダンパーペダルを使いまくっています。最初から最後まで、あらゆる場面で細かく、激しくこのペダルを使っています。ピアノ(弱音)の小さい音を表現したい時には、ソフトペダルもずっと踏んでいました。ダンパーペダルを押し下げると、鍵盤から指をはなしても音を伸ばすことが出来ます。

グールドの演奏の特徴は、ペダルをほとんど使わないところにあります。つまり、音を延ばしたいときには指を持ちかえながら、鍵盤を押さえつづけるというピアノ演奏の基本にあります。そうすることで、音が濁らず明晰に聴こえる効果があると思います。

オラフソンは、超速でパッセージを弾くことができ、見事にリズムを保っていました。ただ、前に書きましたが、音がつながって聴こえ明晰ではありません。メロディーも高音ばかりが目立って、ときどき低音や内声のメロディーも聴こえますが、ポリフォニーという感じがせず、声部が交代している感じがしません。グールドは、いつでもつねに声部の対比を楽しませてくれます。

終演後、観客が熱狂的に拍手と歓声を送りました。ですが、オラフソンはアンコールの演奏をしませんでした。何度かステージにでてきた最後に、「日本へきてこのように盛大な拍手をもらえるのはうれしいですが、このような素晴らしい曲を弾いた後に、他の曲を弾くのはできません。」といった意味を言っていました。会場もすぐに明るくなり、観客は帰り支度をしなければなリませんでしたが、アンコール曲の演奏を聴きたかったという人は多いと思います。

サイトから、第1番の変奏だけを聴くことが出来ます。

おまけ

実は、翌日(12月3日)に葛飾シンフォニーホールの公演では、オラフソンのゴルトベルク変奏曲だけでなく、清水靖晃とサキソフォネッツ(5サキソフォンと4コントラバス)によるこの曲の演奏会があったのです。これを親爺は、チケットを買う際にうっかり間違えてしまったのです。もったいないことをしました。(涙、涙)

おまけ2

ファジル・サイのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おまけ3

辰巳美納子のゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おしまい

  1. グールドは、「1955年には、32曲全曲反復なしのA-B-(なお、1959年のライブ演奏の録音では、A-B-が30曲、AAB-が2曲でした。)でしたが、AAB-は1981年には13曲となり、その分だけでも全体の演奏時間は長くなっています。ちなみに、どちらのグールドの演奏にも、後半の反復をするA-BBあるいはAABBの形式は採用されていません。」(http://wisteriafield.jp/goldberg/#part13ch1325 から引用させてもらいました。) ↩︎
  2. クオドリベット(Quod libet) ラテン語で「好きなものをなんでも」という意味で、大勢で短いメロディの歌を思いつきで歌い合うことです。 ↩︎

財務省の連中はこれをみろ!!!マスコミも見ろ!!!・・・・「イングランド銀行公式 経済がよくわかる10章」

https://10mtv.jp/pc/column/article.php?column_article_id=1679 「入るを量りて出を制す」といった二宮尊徳像。民間や個人なら正しいですが、国は違います。

《財務省よ、オマエは大福帳による財政運営、二宮尊徳をいつまでやるんだ!》

日本の財務省は、「予算を使うためには、税収の根拠がないと支出ができない、国債の発行も返済しなければならないので、子孫にツケを残すので許されない。」というのだが、「これは家計や民間企業に当てはまっても、政府は通貨発行権を持っている。政府が発行する国債を使い通貨の量を調整することで、好景気にも不景気にもなる。国債発行は、子孫のツケにはならない。」と、まえまえから、親爺は言ってきた。

なぜ?と思われる方が多いと思うが、この財務省の考えは、1971年にニクソン大統領が通貨と(きん)(きん)との交換を完全に停止して終わった。つまり、どこの政府も(きん)(きん)のあるなしに関係なく、通貨を発行できるようになったからだ。

《この本に書かれていること》

1.世界中で大量の通貨が発行されている

2023年8月にこの本は、経済の入門書というふれこみで、「イングランド銀行公式 経済がよくわかる10章」(ルパル・パテル、ジャック・ミーニング著、村井章子訳 すばる舎)が出版された。

二人の著者のルパル・パテルとジャック・ミーニングは、イングランド銀行のエコノミストで、ロンドン銀行は、2017年以降、銀行スタッフはロンドンを飛び出し、イギリス各地を回り、市民の経済学の理解を深める任務を与えられているらしい。

この本の「世界中で大量にお金が創られている」と書かれた章に次のように書かれている。以下「 」(かっこ書き)は、この本の引用である。

「・・・イングランド銀行は1兆ポンド(=186兆円)を新たに創造し、英国債をはじめさまざまな金融商品を購入した。・・・一人当たりおよそ1万5千ポンド(=280万円)になる。アメリカの中央銀行である連邦準備制度理事会(FRB)は、7兆ドル(=1,050兆円)を欧州中央銀行(ECB)も同等額のユーロ(=1,134兆円)を創造した。どれも虚空からひねり出したように見える。」

このあと本書では、このような政策を西欧諸国がとった理由は、1990年代にバブル崩壊した日本がデフレ脱出策である前黒田総裁の異次元の量的緩和策QEにFRBが追随したからだと書かれている。

2.お金が生み出されるしくみ

① 銀行券・準備預金・預金通貨

「第1の種類のお金は、中央銀行が発行する銀行券(紙幣)である。この銀行券は誰でも持てるし、手から手へと渡り、そのたびに所有権が移転する。第2の準備預金は、大方の人が目にすることがない。というのは、銀行同士の決済に使うために銀行が保有するお金だからだ。銀行は、中央銀行に口座を開設し、そこにこのお金を預けておく。ちょうどあなたや私が民間銀行の支店の口座にお金を預けるように。この第2の種類のお金には準備預金という名前がついている。」

「わたしたちが、日頃お世話になっているのは、第3の預金通貨である。読者はショックを受けるかもしれないが、この第3のお金には国家に対する請求権がない。なぜならこのお金は、民間銀行、つまり民間企業に対する借用証書にほかならないからだ。あなたが、銀行からお金を借りるとしよう。たとえば住宅ローンを借りると、銀行はあなたの口座残高に貸し出した金額を書き加える。これが第3のお金、すなわち預金通貨である。」

「私たちは日々銀行を利用しているが、いまポケットに入っているのも銀行通帳に印字されているのも同じお金だと思っている。だが、実際には両者は同じではない。これは、現代の経済における貨幣に関して、あまり知られていない驚くべき事実の一つだと言えよう。私たちが日々使うお金の大半は、中央銀行が発行したものではないのである。」

「中央銀行は、たしかにお金を発行している。経済に参加する人々の需要に応じて紙幣を発行しているし、準備預金の形で銀行システムに電子的に資金を供給している。だが、システムの中にあるお金の大半は、中央銀行ではなく民間銀行が作り出したものだ。お金を作るといっても、印刷するわけではない。単に記帳するだけだ。」

② こうして銀行が通貨を創る

「いったいなぜそんなことができるのだろうか。古い経済学の教科書を読んだ人は、銀行は人々が預け入れたお金を別の人に貸し出すと理解したことだろう。銀行制度についてのこのような考え方は、「貸付資金説」に基づいている。貸付資金説は、長いこと経済学説のよりどころだった。この考え方はモデル化しやすいし、直感的にも理解しやすい。だが、残念ながら、現代の経済を特徴づける重要な点の多くが見落とされている。・・・・・・・」

③ ただし無制限に増やせるわけではない

「だとすれば銀行はいくらでも貸し出しをして預金通帳を増やせそうなものだが、なぜそうしないのだろうか。理由の一つは、銀行が自ら制約を課しているからだ。彼らには利益を上げるという目的があるので、野放図に貸し出しすのは好ましくない。確実に返済し銀行に利益をもたらしてくれるような相手に貸し付けたいと考えている。

3.財政出動に必要な資金はどうするのか

国債の発行

「ここまで読んできた読者には一つの疑問が浮かんだことと思う。政府は無制限に減税を行って支出を増やし、経済に刺激を与え続けることができるのか、という疑問だ。・・・・政府支出が税収を上回った場合、差額は借金で埋め合わせるほかない。政府はそのために国債を発行する。国債は国家の借用証書である。・・・とはいえ、国家の財政と家計は同じではない。まず、政府は死なない(ここの政権は死亡宣告をされるかもしれないが)。だから、借金をどんどん先送りすることが可能だ。・・・・加えて、経済効果に期待することができる。たとえば、政府が新しい高速道路を建設するとしよう。総工事費は10億ポンドだが、最終的に20億ポンドの経済効果が期待できるとする。政府はこの費用を国債で賄う。そして償還期日が到来したときには、経済は拡大して税収は増えている。つまり高速道路の建設自体が必要な費用を生み出すわけだ。このケースでは、債務の総額が増えても、経済規模に対する債務の比率は下がっている。 また、経済自体の規模も長期的には拡大していくので、経済規模すなわちGDPに対する債務の比率は自然に低下する。・・・・じつのところ、政府が債務を返済しようと大幅増税をしたり支出を大幅削減したりすれば、経済成長に急ブレーキがかかるので、財政健全化の試み自体自殺行為となる恐れがある。経済成長がゼロになってしまったら、政府債務ははるかに大きな負担となってのしかかってくるだろう。」

《結論》

MMT(Modern Monetary Theory=現代貨幣論) を解説されている学者に中野剛志さんがおり、彼は通貨発行の仕組みを解説のにイングランド銀行のホームページを使っていました。それを思い出して、本書を手に取ったら、とてもおもしろい。よくかかれています。

日本は、バブル崩壊以後まったく経済成長をせず、この30年間で日本国民は非常に貧しくなりました。この原因は、財務省と(主流派の)経済学者たちが、世界の考えとは違う、間違った経済観をいまだに持っているからです。おまけに、マスコミが無批判に追従するため、国民のほとんどもそう思っています。

この本に書かれているように、世界のどの国の国債残高も経済の成長につれて、絶対額は増えていくものです。国債の償還時期が来ても、償還を繰り延べるだけで、実際に返済していません。ところが、日本だけが実際に国債を返済しようとしています。他国にない60年ルールというものを作って返そうとしているのです。

コロナ後のこの2年間、まがりなりにも財政拡大したので、税収は見込みを上回りました。総理大臣がこれを「国民に還元する」といったら、財務省は「国債の償還財源に使ってもうありません」と財務大臣に言ったのです。こんなことでは、いつまでたっても国民は浮かばれません。 いかげんにしろ、財務省!!

おしまい

第16章 グールドが安部公房「砂の女」に傾倒する

1963年9月、ルーカス・フォスが、バッファロー交響楽団の常任指揮者になった。バッファローは、アメリカとカナダの国境にあり、車でトロントからわずか90分しか離れていない。

グールドは、現代音楽の作曲家、指揮者としてルーカス・フォスを尊敬していたので、バッファローに来るまえから親交があり、妻のコーネリアとも親しかった。グールドとコーネリアは、フォス一家がバッファローへ移ってきたことを契機に、より親密になった。グールドがルーカスに電話をし、ルーカスが不在のときには、コーネリアがかわりに話をするようになった。いつしか、グールドはコーネリアに電話をするようになり、二人はもっと親密な間柄になった。

Lukas Foss(Wikipediaから)

グールドとコーネリアの不倫関係はゆっくりとすすんだ。「不幸にしてわたしは結婚したことがない。そしてありがたいことに、いまだに独身である。[1]」というブラームスの意味深長な言葉がある。果たして結婚することが幸福なのか、独身でいることが幸福なのか。その答えはさまざまだろう。

だた、私生活と仕事の両立は、だれにも困難をともなう。とくに芸術家にとっては、究極的な問題になることが多いだろう。誰しも、家庭を基盤とする安定や心のささえが必要だが、それを芸術と両立させるには困難がある。なによりグールドは、孤独なしに独創性は生まれない、孤独がない創作活動はありえないと考えていたからだ。だが、一方で、一人では生きていけないとも感じていた。

グールドは、コンサートの会場で演奏することから1964年に完全にドロップ・アウトした。4月10日にロサンゼルスでバッハ、ベートーヴェンといつもコンサートで弾いている彼が最も好きなヒンデミットのピアノソナタ第3番を[2]を演奏したのが最後だった。

コンサートから引退するといい続けてきたグールドだったが、実際にこの日が最後の演奏会だという表明はしなかった。グールドは黙ってコンサートから姿を消した。

コンサートから引退する直前の彼の1回の出演料は、3,500ドル(2023年価値で、79,285ドル≒1千1百万円)以上、年収は、10万ドル (2023年価値で、2,265,311ドル≒3億17百万円)以上だったといわれる。彼は、人気絶頂のときにコンサート出演をやめた。

グールドがコンサートをやめると何年もまえに言ったとき、マネージャーのホンバーガーだけではなく誰もが、観客の前で演奏しない音楽家は過去にいない、そんなことをすればすぐに観客に忘れられるぞと忠告するのだった。しかし、彼の決心は強かった。マネージャーのホンバーガーもみとめるしかなく、秘書のヴァーナ・サンダーコックは、新しい演奏会のスケジュールをずっとまえから入れていなかった。

ツアーを巡っているあいだ彼は忙しく、自分の時間をもてず疲れ果てていた。各地を回るツアーでは、自分にあわないピアノで弾かされ、慣れないベッドや不満足な空調の部屋で眠らされた。コンサートは、同じ曲を毎回くりかえすだけで何の発見も進歩もなかった。音楽で自分のやりたい、あたらしいことが何ひとつできないと思っていた。しかし、彼を求める周囲の動きはあまりにつよかった。

そんなとき、1964年9月、安部公房原作、勅使川原宏監督の映画「砂の女」が、英語字幕付きでニューヨーク映画祭で公開された。

グールドは、20代後半から官能的で男女のきわどい性描写がでてくる映画をこのんで、少年のような驚きの目でみていたから、この映画につよく魅了された。彼は、この映画の中に、人生の意義に対するヒントのようなものが隠されていることを直感した。彼は長い時間をかけ、なんと100回以上繰り返して見、原作の「砂の女」を読み、作者が問いかけているすべての意味を理解しようとした。

映画「砂の女」

日常生活にたいした希望や夢ももっていない教師[3]が、砂地に生息する新種の昆虫を発見し、その虫に自分の名前を付けてもらえるかもしれないという唯一でかすかな望みをいだいている。彼は、3日間の休暇をとって昆虫採集をするために砂丘へやってくる。砂丘で夕方になるまで昆虫採集に夢中になり、国道へ戻ってその日の宿を探そうとする。そこへ村人がやってきて、部落の宿を紹介するという。その宿は、砂丘を20メートルほど掘った砂の中にあり、縄梯子で降りなければならなかった。

村人から「お(ばあ)」、「おかあちゃん」と呼びかけられているその宿の女主人は、30歳前後の女だった。その宿は砂の底にある木造の隙間だらけの建物だが、砂に浸食されたらしく古びて今にも崩れ落ちそうな建物だった。その建物へ、穴の周りの砂が絶えず崩れ落ちてくる。また風に飛ばされた砂が、雨のようにふりながら落ちてくる。食事をするときには、降ってくる砂を避けるために、頭上に番傘をさしてその下で食べなければならない。風呂もない。女主人は、その建物が壊れないようにするため、毎晩重労働の「サルでもできる砂()き」をしていた。その砂掻きは、穴の底にある家の周りの砂を空の石油缶に集め、その砂を入った石油缶を穴の上で待つ村人たちがモッコで引き上げるという一晩中をかけて行われる重労働だった。

モッコ

翌朝、男が起きると、女は素っ裸で顔だけを隠してまるで銀色の彫像のように寝ていた。男が、その宿を出て帰ろうとすると縄梯子が取り外されてなくなっている。村人と女のたくらみによって、男は穴の底に囚われてしまった。

男は最初のうち、砂の穴から脱出しようと、あらゆる努力をする。まず、女を縛って自由を奪い、村人に女を助けたかったら自分をモッコで引き上げるように要求する。村人たちは、まるで男の要求を受け入れたかのようにモッコを数メートルまで引き上げるのだが、村人たちは途中で手を離してしまう。男は空中から地面にたたき落とされる。

男はつぎに、脱出のため村人たちを困らせるために持久戦にもちこもうとする。そうすると、穴の底へ配給されていた水が供給されなくなる。村人は、二人が労働をしないと、罰として水を与えない。穴の上から放り込まれた週に1度配給される煙草と焼酎を飲みながら、苛立った男は、家の木の壁を壊して梯子の材料にしようとする。制止する女と男がもみ合いになったことをきっかけに、やがて動きを止めた二人は、がつがつした情欲で交わる。

男は、村人が水を止めたことに屈服し、女と砂掻きをはじめると水の供給が再開される。

やはり男は、女に「サルでもできる砂掻き」をなじる。

この場面で原作にはない映画だけにある、わかりやすい女の台詞がでてくる。

(決然として女は言う。)「だって砂がなかったら、誰もわたしのことなんかかまっちゃくれないんだから。そうでしょ、お客さん。」

それでも穴からの脱出をしようと、男はひそかに縄をこしらえていた。女が眠っている隙に脱出するために、男は風邪をひいたと偽り、女だけに砂掻きを一晩させて疲れさせた翌日、行水用の水で体を女に洗わせる。それを契機に男は倒錯したはげしい情熱で女と交わる。そして男は、嫌がる女に無理やりアスピリン3錠と湯呑いっぱいの焼酎を飲ませる。女はたちまち前後不覚に熟睡する。

男は、家の屋根に上がり、用意していた縄を何度か投げると、縄はモッコを引き上げるための支柱に絡む。村人たちがモッコの砂を引き上げにくる時間の少し前に、男は囚われてから46日目の脱出に成功する。しかし、方向感覚をなくしていた男は、そこら中を走り回り、犬や子供に見つかりながら、村人も犬も近づかない「塩あんこ」と呼ばれる沼地のように人が飲み込まれる場所で下半身が埋まって身動きがとれなくなる。男は再び囚われ、モッコにぶら下げられて穴の底へ戻される。

男は穴の生活に順応し始め、夜には女と砂掻きを行うようになる。その一方で、《希望》という名のカラスを捕まえるワナを作り、捕まえたカラスの足に救助を要請する手紙をむすんで放そうとする。

とじこめられていた男は、むしょうに外の世界を見たくなる。村人に、逃げないから1日に30分でいいから、外の世界を見せてくれとたのむ。思案した村人の老人は、「みんな見物してる前でだな、・・・あれをやって見せてくれりゃ、・・・あれだよ、雄と雌が、つがいになって・・・」と条件をだした。男は戸惑うもののたいしたことではないと思い、女を襲おうとする。穴の上で群がって二人を好奇の目で見、口笛を吹き、手を打ち合わせる音と卑猥な呻き声をだす村人たち。村人が照らす懐中電灯が揺れながら、二人に焦点をあわせるように追いかける。村人たちは、覆面をかぶったり、ゴーグルをしているので誰が誰だかわからない。和太鼓が激しくならされる映画の音楽は、最高潮に達する。男は必死に女をおさえつけようとするが、女は「あんた、気が変になっちゃったんじゃないの?・・・色気違いじゃあるまいし!」と逃げ回る。男は女に「真似事でいいんだから」と哀願するのだが、女は、肩の先で男の下腹を突き上げ、拳を顔に交互にめり込ませ、男は鼻から血を流しうちのめされる。穴の上にいた村人たちの興奮も急速にしぼみ、唐突にはじまった興奮は唐突に終わった。

代わりばえのしない何週間が過ぎた後、男はカラスを捕まえるワナ《希望》の底に水が溜まっているのを発見する。そのワナは、おとりの餌の下の砂の中に埋められた樽をおき、底に毛細管現象で水が溜まっていた。男はこの発見に興奮しながら、水の心配がなくなったと大喜びをする。男はたまる水の量、気温や天候の関係を記録し始める。

男と女は、せっせと砂掻きに精をだし、男は女の内職にも協力する。女が望んでいたラジオが、男にとっても天気予報の概況を知りたい二人の共通目標になる。

やがて、冬が過ぎ3月の春が来た頃、女は突然、腹痛を訴える。村人のなかに、獣医のもとで蹄鉄を打っていた男が子宮外妊娠だろうといい、女は布団ごと穴から連れだされる。

女が連れ出された後には、縄梯子が残されていた。待ちに待った縄梯子である。男は、縄梯子を登って、半年ぶりに外界へ出る。しかし、男は逃げ出さなかった。べつに慌てて逃げ出したりする必要はないのだと思う。べつに自分は、自由を奪われているわけでもないと思うようになっていた。逃げる手立ては、またその翌日にでも考えればよいと思っていた。

映画の最後に、失踪宣告が7年後に裁判所から下されたことが映し出される。

グールドは、この不条理な話の中に、人間の本質が描かれていると思った。

《自由》には、好きに動き回る自由と精神の中で感じられる自由の2種類がある。この主人公の男は、都会での生活を奪われ、妻や同僚とも会えなくなり、最初のうちは、「サルでもできる砂掻き」を拒否し、この生活から脱出しようとする。しかし、やがてその生活に順応する。順応するだけでなく、不満をおぼえず満足しはじめる。

いったい《自由》とは、何なのだ。だれもが思うままに生きたいと願い、そのように動き回れることが一番たいせつなことだと思っている。しかし、都会での生活のすべてをとりあげられた《男》が穴の中に囚われたとき、やがて《男》は、《自由》は失っていない、ここを出ていきたくなったら明日にも出ていける、それは自分の決心しだいだと思い、《砂の女》と今後の生活で生まれてくるかもしれない《子供》と、ずっと《サルでもできる砂掻き》をしていく()切り(ぎり)をつけたと(ほの)めかされている。

つまり、《自由》は、人間の心の中にあるものであり、見栄や虚勢、自己欺瞞のためにする争いや戦争してまで守るほど重要なものではない。人間の本質は、実はそんなところにはないのだろうとグールドは思った。

グールドは同時に、この映画のバックにながれる音楽にもつよい関心をもった。音楽を担当しているのは、日本の現代音楽を代表する武満徹だった。全編を流れる調性のない12音技法を使った不協和な弦楽器の音を細く、ときにふとく、上行させたり下降させたりしながら、緊迫した場面でときに強音を鳴らし、全編をとおして不安感を効果的に煽り、衝撃をあたえていた。ハイライトとでもいうべき、顔を隠した村人たちが、穴のうえに集まり好奇の目の衆人環境のなか、男が女を襲うシーンでは、和太鼓が神楽のようにはげしく打ち鳴らされる。

「砂の女」は、安部公房が書いた不条理文学ともシュールレアリスムともいわれる。これを勅使河原宏監督が、映画にするときに、安部公房自身が脚本を書いた。主演をしたのは、日本で一番人気のあった岡田英次と、三島由紀夫の戯曲で活躍をはじめた岸田今日子だった。岡田英次は日本でもっとも人気のある俳優であり、フランス映画「24時間の情事」にも出演し国際的にも名が知られていた。

この映画は、アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされただけではなく、カンヌ映画祭審査員特別賞、サンフランシスコ映画祭外国映画部門銀賞を受賞した。

グールドは同時に、この映画をみながら、この映画には《自由》がもつ意味だけでなく、人間の《性》への作者のメッセージも隠れていると確信した。彼は、すぐにこの原作を読みたいと思った。

原作「砂の女」

1962年6月に刊行された阿部公房の「砂の女」は、翌年、読売文学賞を受賞した。映画は1964年4月に日本公開され、9月に英字字幕付きでニューヨークで公開された。英訳された《砂の女》[4]もほぼ同時に発刊された。

この小説は、《罰がなければ、逃げる楽しみもない》という裏表紙に書かれた《箴言》のような一文で始まる。

 ―― 罰がなければ、逃げる楽しみもない ―― 

人は罰せられなければ、自由を奪われ奴隷状態に置かれても逃げださないと作者は冒頭で暗示する。

この不条理で理屈のとおらない物語には、妙に現実感のある村人たち、男と女が発する会話のリアルさと、砂の穴に閉じ込められるという荒唐無稽な状況の奇妙さが同居し、映画では時間の制約により描いかれていないような細いプロットが多く書かれている。

まず、この小説の冒頭で、ある《男》が行方不明になったのだが、捜索願も新聞広告も無駄になった。何もわからぬまま7年が経ち、法律にもとづき、失踪宣告がなされ死亡が認定され帰ってこなかったと種明かしされている。

主人公の《男》は既婚者で中学校の教師[5]である。『情熱を理想化しすぎたあげくに凍りつかせてしまった』という結婚をして2年4ヶ月が経つ妻の《あいつ》とは別居中[6]である。もう一人、《男》が一応の信頼をよせる同僚の《メビウスの輪》[7]が登場する。

穴にとじ込められた《男》が、はじめて《砂の女》と交わるとき、別居中の妻《あいつ》が対比されるように出てくる。このとき、《男》の葛藤が長く語られる。

穴からの脱出に失敗した《男》が焼酎をあおり、逃亡するための梯子の材料にしようと家の壁をスコップで壊しはじめる。それをとりあげようと《砂の女》が《男》にむしゃぶりついて二人は絡み合い、突然、叫んだ《砂の女》は力をぬいた。《男》が《砂の女》を押さえつけると、むきだしになった乳房に手がすべった。スコップの取り合いあいが男女のカラミになっていた。突然、《砂の女》は言う。

「でも、都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」

《男》は、勃起しはじめていたが、「都会の女?」という言葉に白け、腫れあがったペニスの熱がさめていった。

「どうやら、ほとんどの女が、股一つひらくにしても、メロドラマの額縁の中でなければ、自分の値段を相手に認めさせられないと、思い込んでいるらしい。しかし、そのいじらしいほど無邪気な錯覚こそ、実は女たちを、一方的な精神的強姦の被害者にしたてる原因になっている。」

《男》は過去に淋病にかかったことがあり、いつまでも全快したという確信がない。医者はノイローゼだというが、《あいつ》とのときは、かならずコンドームを使うようにしている。

コンドームを使うことを《あいつ》は、「私たちの関係は、お気に召さなかったらいつでも返品できる商品見本を交換しているような」もので、「たまには、押し売りしてやろうくらいの気持ちになってはいいんじゃない。」となじる。《男》が、「いやだね。押し売りなんて・・・」「そういうなら、合意の上で、素手にしようじゃないか」と返すと、《あいつ》は、「じゃあ、あなたは一生、帽子を脱がないつもり?あなたは、精神の性病患者なんだな・・・」と口論になる。

《男》は、性病がメロドラマとは対極にある真実だという。メロドラマはこの世に存在しないことの絶望的な証拠の品である、「おまえは、鏡の向こうの、自分を主役にした、おまえだけの物語に閉じこもる。・・・おれだけが、鏡のこちらで、精神の性病を患い、おれの指は、帽子なしでは萎えて役に立たない・・・おまえの鏡が、おれを不能にしてしまうのだ・・・女の無邪気さが、男を女の敵に変えるのだ。」と思う。

「都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」と《砂の女》に言われた《男》はいまいましく感じたものの、奇妙な情感、コンドームなしでも彼の指は立派に脈うち、いきみかえった名残の火照りが残っていた。だが、《男》は、精神的強姦は生こんにゃくを塩をつけずに食うようなもの味気ないものであり、相手を傷つけるより前に、自分を侮辱するものだと気乗りがしない。

《メビウスの輪》は女を口説くときに、性欲には2種類あるという味覚と栄養の話をする。飢えきった者にとっては、食物一般があるだけで、神戸牛とか、広島の牡蠣の味だとかいうものはまだ存在していない。満腹が保証されてから、個々の味覚も意味を持ってくる。性欲も同様だ。時と場合に応じて、ビタミン剤が必要になったり、うなぎ丼が必要になる。《メビウスの輪》の理論に従って、口説かれた女はいないが、精神的強姦が嫌なばかりに、《メビウスの輪》は、せっせと空き家の呼び鈴を押している。《男》も、純粋な性関係を夢想するほどロマンチストではない。そんなものは、おそらく、「死に向かって牙をむきだす時にしか必要ない。涸れはじめた笹はあわてて実を結ぶ。飢えた鼠は、移動しながら血みどろの性交をくりかえす。結核患者は一人残らず色情狂に、王や支配者はハレムの建設に情熱をかたむけ、敵の攻撃を待つ兵士たちは、一刻もおしんで、オナニーにふけりだす・・・・」

だが、現実の世界は、死の危険ばかりにさらされているわけではない。冬さえ、恐れる必要のなくなった人間は、季節的な発情からも自由になれることが出来た。

しかし、戦いが終われば、武器はかえって手足まといになる。秩序というやつがやって来て、自然のかわりに、牙や爪や性の管理権を手に入れた。そこで、性関係も、通勤列車の回数券のように、使用のたびに、かならずパンチを入れてもらわなければならない。その確認のためにあらゆる証文がある。しかし、証文はこれで足りているのだろうか、男も女も、相手がわざと手を抜いているのかと、暗い猜疑のとりこになる。《あいつ》は、《男》を理屈っぽすぎると非難する。性に贈答用の熨斗(のし)をつけたりするような悪趣味まで、我慢しなければならないほどの義理はない。もし、秩序の側で見合った生命の保証をしてくれるなら譲歩の余地もあるが、現実は、空から死の(とげ)が降り、地上でもありとあらゆる種類の死で、足の踏み場もない。どうやら、つかまされたのは空手形だったらしい。

こうして不服な性を相手にした、回数券の偽造がはじまる。精神的強姦が必要悪として黙認される。こいつなしには、ほとんどの結婚がなりたたない。互いに強姦しあうことを、もっともらしく合理化しているだけのことじゃないか。あわれな指には、もう帽子をぬいでくつろぐ場所さえない。

《砂の女》は、服を脱ぎ始める。こういう女が本当の女なのだ。女の体が、とりひきに使われる段階は、とうに過ぎてしまった・・・いまは暴力が状況を決している・・・かけひきを度外視した、合意のうえの関係だと考える証拠はじゅうぶんにある。

・・・・それにしても、女の太股に、なぜこれほど激しく誘いよせられるのやら、わけがわからない・・・・《あいつ》との時には、おおよそ経験したことのない一途さだ。・・・いまのおれに必要なのは、このがつがつした情欲なのだ。

けいれん・・・・同じことの繰り返し・・・・・別のことを夢みながら、身を投げ入れる相も変わらぬ反復・・・・食うこと、歩くこと、寝ること、しゃっくりすること、わめくこと、交わること・・・

けいれん…絶叫し、狂喜して進む、この生殖の推進機構の行く手をはばむことは出来なかった。・・・やがて、身もだえながら振りしぼる、白子の打ち上げ花火・・・無限の闇をつらぬいて、ほとばしる流星群・・・

そのきらめきも、ふいに尾をひいて消えてしまい・・・男の尻を叩いて、はげましてくれる女の手も、もう役には立たない。

結局、なにも始まらなかったし、なにも終わりはしなかった。欲望を満たしたものは、《男》ではなくて、まるで《男》の肉体を借りた別のもののようでさえある。・・・・役目を終えた個体は、さっさとまた元の席へと戻って行かなければならないのだ。幸せなものだけが、充足へ…悲しんでいるものは、絶望へ・・・死にかけているものなら、死の床へ、と・・・こんなペテンを、野生の恋などと、よくもぬけぬけ思いこんだり出来たものである・・・回数券用の性とくらべて、はたしてどこかに取り柄らしいものでもあっただろうか?・・・・こんなことなら、いっそ、ガラス製の禁欲主義者にでもなっていたほうがましだった。

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グールドは映画を観たあとに読んだ原作に、やはり、とても驚いた。彼がふだん感じている自由と性への疑問や懐疑といった、もっとも関心がある問いに作者が答えているように感じたからだ。

グールドはこう考えた。―  ほとんどの女にとっては、精神的強姦の被害者を生むいちばんの原因は、股一つひらくにしても、メロドラマのなかでしか相手に価値を認めさせられないという思いこみがあるからだろう。それは、結婚生活のなかにも隠れている。ヒロインになって相手に幻想をいだかせなければならないというあせりがあるからだろう。もちろん、メロドラマは幻想にちがいない。そうかといって精神的強姦は、相手を傷つけるより前に自分を侮辱するものだ。

戦闘行為がすめば、兵器はじゃまになる。戦闘後の秩序のなかで、何度も繰り返す性関係は、通勤列車のような回数券で管理される。この管理をするために、たくさん証文が発行されるのだが、時間がたつと証文は効力を失ってしまう。現実にはあらゆるものが変質し、死屍累々となってしまう。やがては、不服な性の相手に回数券の偽造をはじめ、生こんにゃく[8]を塩もつけずに食うような味気のない精神的強姦が必要悪として許される。互いに強姦しあうことが合理化される。これがほとんどの結婚の本質だ。

グールドは、心に描く女性、作曲家ルーカス・フォスの妻であり画家のコーネリア・フォスを思い浮かべた。

「彼女はとてもまれな存在であり、メロドラマのヒロインになって、自分を実際より値打ちがあるように見せようとするような女性ではない。ぼくは、女性をメロドラマのヒロインのように崇め、ナイトのように男らしく振る舞おうとしてきた。しかし、女はヒロインである必要はなく、男はナイトになる必要もないのかもしれない。彼女は、明るくて利発で、ぼくを理解している。なにより、ぼくたちは対等な芸術家であり、芸術をうみだす苦悩をともにしている。《砂の女》と《男》とはちがう。ぼくがもし砂の穴に囚われたら、脱出してピアノを弾き続けることを選ぶだろう。ぼくは、この《男》のように砂の中で囚われて、砂を掻きながら《砂の女》と暮らすことを選択しない。ぼくは芸術家であり、選ばれた使命をもってうまれてきた人間だからだ。」

「ぼくには、音楽以外なにもない。人付きあいもできないし、世渡りができる特別な知識も技能もなにもない。ぼくにあるのは、ただ音楽だけだ。」

「なにも出来ないぼく、すべての身を音楽に捧げるぼくが生きていくには、だれか世話をやいてくれる母親のような存在が必要だ。それは、結婚相手だろうか?」

「真の恋愛と結婚は精神的強姦をしない前提にした、おたがいが尊重しあい認めあうことが必要で、一方的に世話をやいてもらいずっと受けとり続けるわけにはいかない。だが、時の経過がすべてをかえてしまい、変わらないと思ことは、あり得ない空手形をつかまされることなのだろうか?」

「たしかに恋愛も、はじめはかけひきを伴う戦争かもしれない。しかし、やがて戦争は終わる。戦闘に使った武器は不要になり、くりかえす日常と秩序があらわれる。結婚はあらゆる証文にまもられた秩序だ。だが、秩序は、猜疑心と欺瞞ですりへり変質していく。こうして回数券の偽造がはじまる。」

グールドは、13歳の子供の頃から「僕は独身をつらぬく」[9]といっていた。芸術にすべてをささげるためには、結婚は余分だと考えていた。母フローラは、息子が「特別な子供」[10]となり、音楽をとおして世界に多大な貢献をすることをつねに願っていた。そしてそのためには、音楽以外の優先順位はひくく、寄り道は許されなかった。若い間は恋愛を後回しにして、立派な音楽家、ピアニストになってから、息子が結婚すればよいと考えていた。

息子はその思いを最初はそのとおりに受けとっていた。しかし、ゲレーロとのレッスンでの議論をなんどもくりかえすうちに芸術に結婚はじゃまだ、芸術は《これまでにないものを追及すべきだ》、《反社会的でなければ、芸術家は新しいものは生みだせない》と考えるようになっていった。彼は、母フローラを乗り越えるだけでなく、さらにその向こうへ行こうとしていた。彼の目指す音楽は、過去の名演奏を再現することでも、作曲家の意思を忠実に再現することでもなかった。作曲家が作曲した曲の内側から光を当て、これまで誰も知らなかった発見や表現を見つけだすことであり、それには、生活態度や思考が保守的ではあってはできないと考えていた。こうした考えが、ピアノの恩師、ゲレーロとさいごに対立してしまうのだった。

しかし、性的にずっとナイーブだった彼も、恋愛と性体験をするにつれ、異性を好きになり、自分のものにしたいという願いが、芸術を生み出そうと生み出すまいと、抜き去ることはできなかった。ぼくのエクスタシーは音楽だと思うものの、性のエクスタシーを否定することはできなかった。

性交にたいする欲求は否定しがたい。落ち着いた人生を送りたい。だが、結婚は証文にまもられた秩序だ。その証文の効力もいつまであるのか怪しい。激しい情欲、絶叫し狂喜して進む、この生殖の推進機構の行く手のけいれんは、なにも始めないし、何も終わらせないことはわかった。偽造された回数券で性交をするより、ガラス製の禁欲主義者になったほうがましなのか?

けっきょく、この物語の《男》は、猿でもできる毎日の砂掻きと、《砂の女》との回数券の性を選んだ、

ぼくは、芸術を生みだすために絶対に必要なものは、孤独だと思っている。孤独なしに芸術は生まれない、と思っている。もし、他の人間と1時間いると、それをX倍した時間だけ一人になる必要がある。孤独は人間の幸福に欠かせない要素だ。

この小説の他の場所には、こうも書いてあった。

「欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦(れんが)を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、あぶなっかしいガラス細工になってしまう。・・・・・だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。」

グールドは繰り返しこの映画を見、原作を読んで、芸術と結婚について考え、おかしいのは社会通念の方だと思った。

おしまい


[1] ブラームスの言葉 「神秘の探訪」 「アーティストのポートレイト」P373

[2] プログラム 「グレン・グールド大研究」宮澤淳一年表から バッハの「フーガの技法」から4曲、パルティータ第4番、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番、ヒンデミットのピアノ・ソナタ第3番

[3] 「砂の女」(新潮社版)88ページに「教頭が捜索願の書式を問い合わせに警察を訪れる段取りになる」と書かれている。

[4] 英訳は、”The woman in the dunes”というタイトルで、E. Dale Saundersにより1964年に刊行された。この「砂の女」は世界40か国語以上に翻訳され、ノーベル文学賞候補になる。(NHKブックス・ヤマザキマリから)

[5] 教頭が捜索願を出すだろと書かれている。

[6] 「砂の女」の14章に、「主人を失った彼の下宿を一目見ただけで・・・読みさしの本・・・すべてが中断をこばみ、生き続けようとしている・・・」とあり、その下宿に彼は置手紙をしてきたことが書かれている。

[7] メビウスの輪 一度ひねった紙テープの両端を貼り合わせたもので、裏も表もなくなる。

[8] 生こんにゃく 英語版では、生こんにゃくを“unsweetened tapioca”と訳されている。

[9] 「独身をつらぬく」 「愛と孤独」にロバート・フルフォードの発言として“He is a confirmed bachelor at thirteen,” Fulford wrote in the Malvern newsletter on April 3, 1946.と書かれている。

[10] 「特別な子供」 「グールド伝」第4章35ページ 注釈にジェシー・グレイグが1985年のCBCテレビのインタビューで答えている。

グールドの力づよい《ハミング》《鼻歌》は、な、な、なんと、目の前にあった!!

ハミングを止められないグレン・グールドは、ゴルトベルク変奏曲を録音するとき戦争で使われたガスマスクをしてスタジオに現れ、皆を大いに楽しませたという。
(Why would Glenn Gould wear a gas mask in the studio? | CBC Music | Scoopnestから)

グレン・グールドは、歌を歌いながらでないとピアノを弾けなかった。母親が、幼児の頃からピアノを弾くときにメロディーを歌いながら弾くように教えたからだ。この癖は、生涯抜けなかった。また、ピアノを弾くときに非常に低い位置で弾いた。そのために父バートが作ってくれた、4本の脚を約10センチほど切り長さと傾きを微調整できる折り畳み椅子を、何処へでも持ち運び、死ぬまで使った。この2つの逸話は彼の人物を語るうえで一番重要なものかもしれない。

グールドが生涯使い続けた椅子。最晩年には座面がなくなっても、この椅子を前傾するように調整して弾いていた。もちろん、代わりの椅子は作られるのだが、グールドは気に入らなかった。
歌いながら弾くグールド:USB版コンプリートエディションから

今年の春に、清塚信也さんと鈴木愛理さんがMCをされている毎週放送のNHK「クラシックTV」が、グレン・グールドを特集した。(下がその「クラシックTV」を取り上げた親爺のブログです。)この番組で清塚さんは、冒頭にグールドが《エキセントリック》な人物であることを説明するのに、演奏に彼の《ハミング》《鼻歌》が入っているとこのようにいわれていた。

う~、ふぅ~ん、う~んって声が入っているから、子供の頃、グールドのレコードを聴いたとき《心霊現象》だと思った。音程も取らずにう~、ふぅ~ん、う~んってやるから、音楽にはなっていない。歌では、ないんです。・・・・常識が通用しない人なのかなっていう節が、そういうところに見られる。」

ゲストは、ハリー杉山さんである。

この番組で放送された《ハミング》《鼻歌》を、親父のブログを見てくださった方に伝えたところ、「え~っ!、ブラジルさんはグールドのハミング、鼻歌分かっていないんじゃないですか?」と言われてしまった。たしかにそうだよなあ、と納得してしまった。

というのは、グールドの演奏は有名なゴルトベルク変奏曲の録音が1956年であり、当時はモノラル録音で音は良いとはいえなかった。彼が出したレコードのうち最初の正規録音4枚は、モノラル録音である。最近グールドの録音が発掘されて新発売されるが、これらはもっと音の悪いCBCカナダ公共放送のモノラルのラジオ放送が音源のことが多い。要するに、コロンビア・レコードのモノラル録音が当時の最高技術水準だった。

グールドは、2番目の録音に、ヴィルトゥオーソと言われるような老練のピアニストが好んで弾く、ベートーヴェンの最晩年のピアノ・ソナタ30番、31番、32番を『強烈』な演奏で録音した。『強烈』という意味は、楽譜の指示どおりに弾いてないところもあり、正統的、伝統的な演奏とかけ離れたクラシック音楽界への挑戦だった。この曲が入ったCDを親爺は、曲の良し悪しより録音の悪さが気になって正直敬遠していた。親爺は、てっきり雑音だらけだと思っていた。

ところが、指摘を受けて聴き直してみると、録音が悪いというのはあるが、グールドの唸り声がずっと録音されているじゃあありませんか。雑音と唸り声が同じレベルで入っている。

親爺は、グールドにハマって、1950年代のグールドの録音を何とか良い音で聴きたいと思ってオーディオにお金をかけてきた。だが、グールドの唸り声を知らなかった。下の写真のB&Wというイギリスのスピーカーとヘンな格好のヘッドホンは、結構な値段がした。はっきり言って情けない。まあ~、わからなかったものは仕方がないかなあ。

何といっても《ハミング》《ハナウタ(鼻歌)》という表現はかなり商売上の忖度が入った手加減をした表現ではないかと思う。実際はそんな生やさしくキレイなものではない。あれは、清塚さんがいう《心霊現象》である。親爺には《背後霊の呻き声》に聞こえる。だいたい歌のようにながくつづこともなく、なんの意味も持っていない。ピアノの音の背景で、ときどき《妙な声》が瞬間瞬間に入っている。まれにグールドの歌が声楽家のように入っている演奏があるが、長い時間ではない。

1959年録音のバッハのイタリア協奏曲とパルティータの第1番、第2番のLPを、1999年にSACDにしたものには、日本語で書かれた帯がついており、「*一部ノイズはオリジナル・マスターテープに存在するため、ご了承ください。グールド自身の声(ハミング)もございます。」と書かれている。

基本的に、当時の録音技師たちも、グールドの歌声が録音されないように格闘したはずだ。親爺は、ピアノの演奏を録音する際に、音源であるピアノの中にマイクを突っ込み振動する弦の音を取るようになったのは、グールドが出てきたときが最初だったのかもしれないと想像するのだが、どうだろう。

先に書いたように、同じ椅子を彼は生涯つかい続けた。最初は、座面がありクッションがあった。時間の経過とともに、座面の詰め物が飛び出した。やがて、座面のクッションの部分は完全になくなり、木の枠、骨組みだけになった。椅子が軋むようになったので、演奏の際には、音がしないように絨毯が敷かれるようになった。写真を見ると、椅子の傷み具合で、何年頃の演奏なのか見当がつくといわれる。

グールドの凝り性の程度が分かろうというものだが、敷物をおいても骨組み自体がきしむ。この音が、ヘッドホンではわかる。スピーカーではわからない。といいながら、何の曲だったのか探そうと、録音時期の遅いトッカータ集やフランス組曲などを聞いて見たのだが、生憎よくわからなかった。

最後に静かな曲がいいだろうと思って、1981年録音のバッハのフーガの技法の終曲コントラプンクトゥス第14番(未完)を聴いて見た。この曲を聴いているとグールドはずっと大きな声で歌っている。見事にハモっていると言っていいくらいだ。おそらくなのだが、椅子のきしむ音もときどき入っている気がする。曲想が変わる部分で右手だけで長い旋律を弾くところがわかりやすいと思う。書物などのページを繰るような、ピアノでもないグールドの声でもない、雑音らしきものがする。

テニス・クラブの仲間に言われたことがある。「ピアニストの演奏する椅子が軋む音を聴いて、喜んでいても仕方ないんじゃない?」

そりゃそうだ。おっしゃるとおりです。返す言葉がありません。

ところが一方で、グールドのいろんな曲を聴きながら、あらためて「やっぱり、グールドの演奏はどれも凄い、素晴らしすぎる!」と思ってしまった。

おしまい

「紹介/contact」をリライトし、職歴とサラリーマン生活で感じたことなどを書きました。

固定ページである「紹介/contact」のページを書き直しました。親爺の職歴や、経理経験で感じたことなどを書かせてもらいました。宣伝のために、同じものを投稿いたします。

東洋経済オンラインから:青函トンネル

1954年生まれ、千葉で暮らしています。サラリーマン生活を、青函トンネルや各地の新幹線を建設する日本鉄道建設公団(のちに独立行政法人へ改組され鉄道運輸施設整備機構と改名)というところで20年、途上国の開発を援助する国際協力事業団(のちに独立行政法人へ改組され国際協力機構と改名)というところで、20年間勤務しておりました。その途中で、短い期間ですが関西空港株式会社にも勤務したことがあります。どちらも転勤の多い職場でした。関東地方以外では、新潟、函館、大阪、福岡、高知、ブラジリア(ブラジル)、ポートモレスビー(パプアニューギニア)で暮らして、それぞれ思い出深い勤務地でした。

そのどちらにおいても経理関係の仕事に従事し、決算などを担当してきました。

ちょうど、バブルが崩壊したときもやはり経理を担当しておりました。おりからグローバル・スタンダードの掛け声のもと、日本の会計ルールが《時価会計》へと改められました。このときに「今、会計基準を変更したら土地の投げ売りが起こるだろう。」と思っていたらそのとおりになりました。

時価評価というのは、決算期ごとに資産価値をその時の価格へ再評価する(評価しなおす)ものですが、バブルがはじけようとする時期にこれをやることは、不良債権を爆増させる効果があります。つまり、企業が持っている土地の評価損はこれまで売らない限り表に出なかったのですが、再評価することで帳簿上の価格が下がってしまうと赤字決算になります。赤字を放っておくわけにはいきません。つまり、土地を皆が売り、ますます土地の値段が下がるスパイラルが起こるのです。

バブル崩壊に合わせて、アメリカのハゲタカファンドが日本の不動産を安い価格で買い叩きにやって来るのですが、今にして思えば、日本のバブルがそろそろ崩壊すると考えていたウォール街の策略に、日本の政治家がまんまと乗せられた結果だと思います。

日本鉄道建設公団というところで勤務していた時に、《カラ出張》問題を起こして日本国内を騒然とさせました。カラ出張でねん出した手当てを賃金の一部に充当していました。私は、新潟で勤務していたのですが、誰かが《カラ出張》を内部告発をしたのです。誰が内部告発したかは、今でもわかりません。マスコミが連日報道し、公団総裁は辞任しました。世論にこの法人を潰せという声がつよくおこり、そうした声をうけて、職員の新規採用が停止、職員の多くが他方人や地方公共団体へ出向させられました。

私も何人かの同僚とともに国際協力事業団へと出向することになり、出向期間が終わるときに採用試験を受けて事業団へ転籍しました。

こちらでも経理関係の仕事をしておりました。民主党政権時に「特殊法人は資産処分して、その売却金額を国庫納付しろ」という閣議決定がなされ、自民党政権に代わってもこの方針は変わりませんでした。事業を行ってきた国際センターや研修所、職員住宅などの大量の不動産を売却し、財務省理財局へ現金や現物納付の仕事をした経験があります。ちょうど、処分時期が不動産価格の低迷していた時期でしたので、「もったいないなあ」と矛盾を感じながら仕事をしていました。このときは主務官庁である外務省の経済協力局、不動産を担当する在外公館課、財務省の理財局、国際センターなどの所在する財務局、時に弁護士の先生方などと協議しながら業務をしていました。

先に書いたように、資産の評価は国際標準に改められ時価評価になりましたので、どこの法人も遊休している資産は稼働が見込めなくなると、「減損処理」というのですが、売却しなくとも帳簿価格を下げる必要があります。こうしたことを公認会計士や税理士の先生方と相談しながら業務を進めるわけです。

国際協力事業団では、ブラジル事務所とパプアニューギニア事務所で海外勤務しました。やはりこちらでも経理関係を中心に、現地職員の労務管理や裁判関係などを担当していました。

ブログを書き始めた経緯は、パプアニューギニアへ赴任が決まった時に、普通の人が勤務できないところ行くのだからブログを始めてはという従兄の勧めによるものです。

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趣味ですが、クラシック音楽のカナダのグレン・グールドというピアニストにはまっています。彼は、いわゆる正統派のピアニストではありません。これ以上ないほどの技量を持っていますが、作曲家の感覚で伝統にとらわれずに曲に取り組み、常にこれまでにない演奏をします。楽譜どおりに演奏しない、楽譜そのものに手を加えることもするので物議を醸してきました。没後41年ですが、CDショップではグールドのCDやDVDなどが大量に販売されており、人気はいまなお健在です。書籍も大量に販売されています。ぜひ聴いてください。

またテニス・フリークでもあります。テニスは社会人生活を始めたときに、日本鉄道建設公団の独身寮にテニスコートがありました。そこで始めてから約50年になります。腕前は相変わらずですが、テニスをつうじた仲間を多く作ることができ、親爺の人生にかなりの色どりを与えてくれました。

リーマンショック後、サブプライムローンを抱えていなかった日本経済の立ち直りが欧米より遅いことに疑問を抱きました。リーマンショックの震源地であるアメリカは、いち早く経済を立ち直らせました。しかし、日本にはサブプライムローンがないのに、デフレがもっと酷くなったのです。それで、10年程前から《リフレ派経済学》を勉強し始めました。異次元の量的緩和は不発に終わりましたが、YOUTUBEでMMT《現代貨幣理論》を知り、「赤字国債が借金ではなく、国民の資産」になるという貨幣観へと変わりました。現代貨幣理論は真実です。簿記を知っているとさらっと理解できます。

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ここからはわたしの問題意識を書きます。興味のある人だけ読んでくださいね。

結論から言うと、日本人のほとんどが地上波のテレビ放送のせいで日本の置かれている現状に何の問題がないと思っています。ネットや、YOUTUBE、ツイッターなどのSNSを使っている人が非常に増えましたが、やはり、人々がニュースなどの情報を手に入れるのは、圧倒的にテレビであり、特に地上波のバラエティ番組とニュース番組からだと思います。

この無料で手軽に流れている地上波のテレビ放送が一番の問題だと思っています。 

マスコミに対して、日頃思っている怒れるヘンコツ親爺の問題意識を次に書きます。

親爺は、2~3年ほど前から、YOUTUBEをよく見るようになりすっかり世の中を見る目が変わってしまいました。

しかしYOUTUBEを始めとするSNSにも大きな問題があります。YOUTUBEやFACEBOOKなどは検閲を行っています。何でも発信できる《プラットフォーム》と言われてきましたが、何でもは発信できていないのです。

例えば、《政府やWHOなどに反対する意見》、《殺人》《自殺》とか、《性的な表現》、ガーシーが逮捕されましたが《誹謗中傷》も該当します。これらをすると動画が削除されます。この基準が正しければ問題ないのですが、実際は恣意的に運用されています。結局のところ、SNSの世界でも言論の自由はありません。多くの動画がニコニコ動画へ移っているのですが、使い勝手が悪いこともあり、視聴者の数は減っていると思います。

ただし、X(旧TWITTER)は、オーナーがイーロン・マスクに変わり自由に意見が言えるように変わっています。

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親爺もわずか数年前まで、テレビのニュース番組を見て社会を知ったつもりになっていました。ところが、NHKも民放も、新聞も雑誌(『週刊文春』を除く。)も、国民に現実を知らせない。自分に有利なことだけを報道し肝心なことはスルーしています。

おかげで「日本は世界に例のない安全で良い国だ。」とか「欧米のインフレに比べて日本はうまくやっている。」とか多くの国民は思っています。ニュースを取捨選択し、報道する場合は、放送局自身のステータスを保つか上げるもの、自分に悪影響が跳ね返ってこないニュースだけを取り上げ、不都合なトピックはスルーしています。

この原因は、マスコミ関係者に左翼系のリベラリストが多いからだと思っています。左翼系のリベラリストとは、自由と平等が何より大事、防衛力強化などとんでもない、平和と環境保護が最も大事だと考える人たちです。自由と平等は、そもそも同時に両立しない概念です。口で反戦を唱えたら、敵国は侵略をしてこない、自由と民主主義は守られると考えるお花畑の住人です。ポリコレ、LGBTQ信者といってもいいでしょう。いざとなったら、アメリカが守ってくれると言うのかも知れませんが、今のアメリカにはその気もないし力もありません。同盟はかけ声だけです。

そういう信念を持つマスコミですが、財務官僚をはじめとする利害のある官僚、忖度する政治家、例えば無益無害でポリシーのない岸田総理は持ち上げ、影の総理といわれる木原誠二氏などにまつわるネガティブな事件はスルーし報道しません。他方、放送法の改正を公然と口に出し放送局の既得権益を侵しかねない、靖国神社へ先頭で参拝する高市早苗氏などは、人気が下がるようなトーンの番組を意図的に流しています。

基本的にマスコミには、いまや取材力がありません。コバンザメになって、官僚と政治家につきまとい、おこぼれをもらうことしかできません。丸め込まれないと記事を書けない、言いたいことは書けないのです。

マスコミはその点、非常に気の毒です。《個人情報保護法》と《情報公開法》が出来て、情報へのアクセスを妨げるようになったと思います。《個人情報保護法》により、国民の意識が変わり個人情報は秘匿されてなかなか出てきません。公益性があってもです。《情報公開法》とは名ばかりで、この法律により、行政機関が持つ情報が公開されるのは、その機関の長が事業に差し支えないと判断したものしか公開の義務がありません。そのためにマスコミが役所や政治家の悪事を嗅ぎつけても、根拠となる情報にアクセスするのが昔に比べてはるかに難しくなっていると思います。

とはいうものの、マスコミの責任放棄はあまりにヒドイ社会に対する悪影響は計り知れない。おかげで、官僚や政治家がやりたい放題しても、問題視することなくスルーされている。

そのためにマスコミは、芸能人の不倫、日本大学アメフト部の麻薬問題、ビッグ―モーター不正事件などを取り上げるものの、これらはマスコミが報道しても不利益がないものばかりです。大リーグネタ、大谷翔平は、親爺も好きなのでよく見ていますが・・・。

そのように重大なトピックがあっても、自分にとっての損得計算をしたり、忖度して放送しないことを考えているので、放送の中身がやたら天気予報が長く詳しくなり、台風情報、災害情報、防災情報を長尺に放送します。また、何十年前に日航機が墜落したとか、東北沖や神戸や北海道で地震、津波が起こった、子供や家族が殺がされて何十年たったとか、これらを忘れないで風化せないようにしようとか、そんなことばかりを放送しています。

放送されていない、あるいは放送されていても不十分な事柄には、次のようなものがあると思います。

  1. ジャニーズ性加害問題。これはマスコミは共犯です。当時の経営者責任を追及できないとしても、すくなくとも現在の社長、会長たちは、自分たちの報道姿勢が間違っていた、共犯であり被害者を増やしたと認め、今後は姿勢を改めるとゴールデンタイムに長い時間を取って表明すべきです。(BBC放送の要点は、日本のマスコミの責任を問うものでした。)
  2. 木原誠二官房副長官夫人の元夫不明死事件への捜査介入疑惑と木原氏本人の違法デリヘル問題(違法デリヘルというのは、風俗嬢を呼ぶ《デリバリー》のことですが性行為は禁止されている。)テレビの強い者に対する放送しないという姿勢はあまりにひどいです。《週刊文春》は、裁判になっても負けないように証拠を持ったうえで報道しています。
  3. BBCが第2弾を放送。日本を舞台にした中国人がラッシュの電車の痴漢実写ビデオを販売している件(BBCは、犯人の顔まで映している。日本のマスコミは報じない。)
  4. 自民党松川るい氏、今井絵理子氏ら38人が、税金を原資にする政党助成金でパリ観光していたことで炎上したが、テレビニュースやワイドショーなどで詳しく地上波は報道しない。
  5. 自民党女性活躍担当首相補佐官の森まさこ氏(この人は、弁護士資格を持つ元法務大臣で、日産のカルロス・ゴーンが逃亡した際、『法廷で自身の潔白を証明すべきだ。』と口を滑らせ、数時間後に撤回するハメになりました。被告が身の潔白を証明する必要はありません。検察側が犯罪を立証しないとならないのです。)が、ブライダル業界への補助金をツイッターで少子化対策と自画自賛の投稿をし、さらに100万円を受領していたため利権を疑われて炎上しているのですが、やはり地上波は詳しく放送しない。
  • 新型コロナのときに、テレビは「コロナはおそろしい病気だ」という報道をさんざんしました。しかい、専門家委員会に対し反対意見を持つ多くのウイルスの専門家や医師もいたにもかかわらず、これらの反対意見は報道しなかった。街頭インタビューの市民の反応も反対意見をまったく流しません。この街頭インタビューの市民の反応は、テレビ局が誘導したい声だけを流しており、反対意見は放送しません。この市民の受け答えが、他の国民へ及ぼす影響は非常に大きいです。
  • 「国債は借金で、将来の子孫へツケを残す。」という財務省の意向に沿った放送はしますが、反対意見を持つ専門家も多いにもかかわらず、こちらは放送しない。マスコミはまともに経済を勉強して、発言しているとは到底信じられません。条件反射のように、財務省からもらってきた資料を無批判に右から左へと報道しているだけです。
  • 《貧困》問題を報道しない。夏休みに給食を食べられず食事にありつけない子供がいることや、低賃金や、授業料を払えなかったり、学生ローンが原因で女性が体を売ったり、若い男性はやはり低賃金のため闇バイトに応募して犯罪の捨て駒にされている。男女どちらも貧困のせいで結婚率がダダ下がりしているのだが、これを問題視した報道をしない。報道することがあると、「他山の石」(他人の失敗を見て、自分は注意する。)のような報道姿勢である。
  • 地方の経済的窮状を取り上げない。地方は都会以上に窮している。
  • その後の統一教会問題を報道しない。

おかげで大半の国民は、日本政府は良くやっている、日本は平和で良い国だと思っています。

だが、現実には日本が抱える問題は大きくなり、とくに若い貧困男女は、すぐに日本脱出するべきだと親爺は思っています。例えば、オーストラリアへ日本と同じ仕事に着けば、数倍の賃金を得られ、数年で多額の貯金を出来ます。

貧困問題について、ユーチューバーの中田敦彦氏が、テレビのバラエティ番組に出た時に、日本のことを《不況》と表現したら、ディレクターから「『不況』という言葉はテレビではタブーです。言ってはいけません。」と諫められたと言っていました。テレビで、「景気が悪い」と言うのは、御法度なのです。

国の借金や財政の問題で、財務省の唱える主張に反する内容をマスコミが報道することはないと書きました。仮にそうした報道をすると、次回から財務省から情報提供されなくなるからです。逆に、何を言われても反論しない弱い立場の日銀をあることないことで徹底的に批判し、《スケープゴート》にしています。金利を上げて欧米のように正常化しろというのですが、こんなことをしたら、デフレから脱却できません。デフレ脱却は財政の仕事であり、日銀の仕事ではなく財務省の所掌です。

マスコミの取材力のなさと関係しますが、日々起こる事件は、犯人が逮捕された段階で、はやばやと報道しますが、これは検察や警察の記者発表と、その後の関係者のリークが報道ソースです。マスコミが独自に調査したものではありません。

捜査情報を公務員がマスコミにリークすることは、地方公務員法の守秘義務違反であり、裁判が始まっていない段階から被疑者を犯人扱いするのは、《推定無罪》の原則が無視され、民主国家のやることではありません。マスコミは記事を、検察と警察の記者発表と、これらの公務員にべったりはりついて、《おこぼれ》記事を貰っており、御用報道しかできません。

新型コロナや健康番組は、国民の不安を煽ることがもっとも視聴率を稼げると考え、テレビは不安を煽る内容の番組ばかりやるのです。

ウクライナ侵攻に対する報道もそう考えることが出来ます。もちろん親爺は、プーチン大統領が正しいと言うつもりは毛頭ないですが、世界は欧米と日本・韓国の西側 vs ロシアだけではありません。中間的な対応を取っている国である、中国やインド、南米やアフリカ諸国などの方が多いのです。日本の報道は、アメリカの民主党政権寄りの情報だけを報道しています。

地上波テレビを信じるのはもうやめましょう!!

おしまい